89話
「ごめん……落ち着かないよね」
人の波が途切れた、その隙を縫うように、アディエルがそっと囁いた。
確かに、先程から途切れることなく人に囲まれている。
私はゆるく首を振った。
「……大丈夫」
本当は、アディエルを独り占めしたい気持ちが胸の片隅にある。
けれど、その想いには、そっと蓋をした。
それよりも――
真剣な表情で人の話に耳を傾けるアディエルの横顔はとても格好良くて、気づけば、ずっと目で追ってしまっていたのだ。
そんなことを正直に言えるはずもなく、私は少しだけ言葉を濁して微笑んだ。
アディエルは、そんな私の様子を見てわずかに眉を下げたが、結局、何も口にはしなかった。
今日のアディエルは、どこか歯切れが悪い。
……きっと、私が避けていたせいなのだろう。
そう思うけれど、自分の気持ちに気づいてしまった今、以前のように接することは、もうできなかった。
二人の間に流れる、どこかぎこちない空気を断ち切るように、王宮楽団の演奏が始まる。
「……踊ろうか」
差し出された手を、そっと取った。
流れ始めたのは、よりにもよってロマンチックなスローステップ。
アディエルとの距離に、私は耐えられるだろうか。
離れたくないと、縋りついてしまわないか。
何でもない顔をして、踊れるだろうか。
そんな不安が胸をよぎる。
それでも――アディエルと過ごす時間に胸が高鳴るのを、止めることはできなかった。
そっと身を寄せ、リズムに身を委ねる。
抱きしめられるような体勢に、胸が一気に騒ぎ出す。
早鐘のような鼓動に気づかれたくないのに、離れることができず、思わずアディエルの背に回した手に力が入ってしまった。
「フィオナ」
呼ばれて顔を上げると、そこには、真剣な眼差しのアディエルがいた。
「後で……話したいことがあるんだ。……少し、時間をもらえるかな?」
「……うん」
頷くと、アディエルはほっとしたように表情を和らげる。
その笑顔が眩しくて、胸の奥がじんわりと熱を帯びた。
私は悟られないよう、そっとアディエルの胸に頬を寄せる。
すると、彼は包み込むように、腕に力を込めた。
このまま時間が止まってほしい――
そんな願いと、止まってほしくないという想い。
この瞬間だけでなく、これから続く時間すべてを独り占めしたい。
そんな欲張りな自分に、私は胸の奥で、そっと苦笑いをするのだった。




