88話
馬車がゆっくりと止まり、私はアディエルにエスコートされながら外へ降りた。
触れ合った手の温もりに、胸がきゅっと締めつけられる。
ほんの一瞬、甘い痺れが胸の奥を走った。
このまま手を取られるのでは、と身構えたのも束の間、アディエルはするりと手を離してしまう。
思わず、自分の指先を見つめてしまった。
いつもなら、このまま指を絡め取られるのに。
半歩先を歩く、アディエルの後ろ姿。
このくらいの距離が、ちょうどいい。
けれど、そう思おうとするほど、その距離がひどく遠く感じられた。
寂しさを訴える手をぎゅっと握り込む。
――それでも。
私は思い切って、半歩だけ歩みを進めると、隣を歩くアディエルの指先にそっと触れてみる。
爪先同士がかすかに触れ合い、カチリと小さな音がした。
その瞬間、アディエルが足を止める。
ほんのわずかな沈黙。
逡巡するような間のあと、彼は静かに私の手を取った。
絡められた指先が、そっと爪をなぞる。
言葉はなかったけれど、手を通して伝わるその温もりだけで、胸がいっぱいになった。
大広間へ足を踏み入れると、待ち構えていたかのようにロベリア王子が姿を現した。
「ロベリア王子殿下に、ご挨拶申し上げます」
アディエルに合わせて、私も頭を下げる。
顔を上げるとそこには、どこか楽しそうなロベリア王子の笑顔があった。
「フィオナ嬢、ランフォード公爵家での暮らしには、もう慣れたかい?」
「はい。皆さん、とてもよくしてくださっています」
そう微笑んで答えると、ロベリア王子は、ずいっと一歩距離を詰めてきた。
「それで――アディエルは、どうだい?」
突然の問いに、言葉を失う。
“どう”と言われても、何を答えればいいのか分からず戸惑っていると、隣のアディエルが、まるで話を遮るように咳払いをした。
けれどロベリア王子は気にする様子も見せず、にこにことしたままだ。
「えっと……」
少し考えてから、私は正直な気持ちを口にした。
「……大切に、してもらっています」
そう答えると、繋がれていたアディエルの手に、きゅっと力がこもる。
それだけで、頬に熱がのぼった。
私とアディエル、二人の様子を交互に見たあと、
ロベリア王子は満足そうに、にやりと笑う。
「うん。私の友人を、よろしく頼むよ」
そう言って軽く手を振ると、王子は何事もなかったかのように人混みへと消えていった。
「えっと……フィオナ、何か飲む?」
「……うん」
そっと顔を上げると、アディエルと真正面から視線が合った。
まるで縫い留められたかのように、視線を外せない。
アディエルもまた、逸らすことなく、静かにこちらを見つめていた。
「フィオナ……」
その声が胸の奥にそっと触れた、その瞬間。
「ランフォード小公爵様! こちらにいらっしゃいましたか!」
明るい声が割り込む。
アディエルは一瞬口を開いたが、言葉にはせず、声を掛けてきた貴族へと視線を移し丁寧に挨拶を返した。
……アディエルの声を、もう少し聞いていたかった。
そんな小さな落胆を胸の奥に押し込み、私は気持ちを切り替えるように、アディエルの隣で微笑み、同じように挨拶をする。
その後も、次々と人が訪れ、言葉を交わす。
結局――アディエルが何を言いかけていたのかを知ることはできなかった。




