86話
ひとり、馬車に揺られながら流れる風景を眺めていると、ローズマリー様とマリアンヌ様とのやり取りを思い出し、自然と頬が緩んだ。
ふと、頬を染め、目を輝かせながら話すマリアンヌ様の姿が脳裏に浮かぶ。
人は、恋をすると、あんなにも輝き、美しくなるのだろうか。
――“恋”
その言葉と共に、胸の奥がちくりと痛んだ。
かつて、私はレオリオに恋をしていた。
いつか彼に愛されることを、疑いもしなかった。
けれど、現実は違った。
私は、レオリオに選ばれることはなかったのだ。
あんなに胸を高鳴らせた想いも、無残に砕け散った。
私は、苦しい恋しか知らない。
開きかけた傷を押さえるように、そっと胸に手を当てる。
『フィー』
不意に、アディエルの声が聞こえた気がして、慌てて首を振った。
浮かび上がる感情から目を逸らすように。
――けれど。
本当は、アディエルを前にして感じる胸の高鳴りの意味に、薄々気付いていた。
でも、もし私がこの気持ちに気付いてしまったら。
アディエルに対して溢れるこの想いに、名前をつけてしまったら。
その瞬間、報われない未来へと繋がってしまう気がして、怖かった。
もし、アディエルへの想いが砕けてしまったら、
私は耐えられる自信がない。
だから、自分自身を騙し、自分の気持ちから目を背けてきた。
ただの“婚約者”なのだと、自分に言い聞かせて。
目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。
浮かんできてしまった感情を沈めるように。
私自身から、隠すように。
そっと目を開けると、ちょうど公爵邸に到着したところだった。
御者にエスコートされ、ゆっくりと馬車を降りる。
「おかえり」
その声に視線を上げると、そこには優しく微笑むアディエルの姿があった。
「あ……」
彼を見た瞬間、頭の先から足の先まで、雷に打たれたような衝撃が走る。
胸の奥が、ぎゅっと掴まれたように苦しい。
何かを言いたいのに、震える声は音にならなかった。
泣きたくなるのは、何故だろう。
――ああ。
もう私は、自分を騙すことができなくなってしまったようだ。
アディエルに向かう、この気持ち。
私は、アディエルに恋をしている。
「フィオナ?」
固まったまま動けずにいると、アディエルが心配そうに声をかけた。
「……っ!」
はっとして顔を上げた瞬間、視線が絡む。
顔から火が出るのではないかと思い、慌てて視線を逸らした。
自分の気持ちを認めた途端、アディエルにどう接すればいいのか分からなくなってしまった。
顔を見るだけで、心臓が暴れるように脈打つ。
声を聞くだけで、耳の奥が甘く痺れる。
どうしていいか分からない私は、挨拶もそこそこに、逃げるように自分の部屋へと戻っていた。
それからというもの、私はアディエルを避ける日々を送ることになったのだった。




