84話
「フィオナさん、呼び立ててしまって悪かったね」
公爵様はそう言って、お茶を一口含み、穏やかに微笑んだ。
緊張で強張る私は、無意識にそのカップを置く仕草を目で追ってしまう。
「ふふふ。そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」
私の様子に気付いた夫人が、柔らかく笑いかけてくれる。
けれど、肩に入った力はなかなか抜けなかった。
「フィオナ」
隣に座るアディエルが、そっと手を握ってくれる。
その温もりに、胸の奥が少しだけほどけた。
ほとんど手を付けられなかった食事を終え、公爵様の執務室へ向かおうと部屋を出ると、アディエルが迎えに来てくれていた。
緊張で強張る私の顔を見て、彼は小さく笑ったが――
その表情には、彼自身もまた、わずかな緊張を滲ませていた。
「さて、昨夜の件だが……」
公爵様のその一言に、私は反射的に立ち上がり、深く頭を下げる。
「公爵家にご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
目をぎゅっと閉じ、叱責の言葉を待つ。
しかし、いくら待っても何も降ってこない。
恐る恐る視線を上げると、公爵様も夫人も、眉を下げて微笑んでいた。
「頭を上げなさい。……君は、何も悪くない」
そう言われ顔を上げると、アディエルが自然に肩を抱き、促すように席へ戻してくれる。
「ブレイシア侯爵家には、正式に抗議を入れた」
「……抗議、ですか?」
意味が分からず首を傾げると、公爵様は不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。
「当然だろう。我がランフォード家の、大切な嫁に手を出したのだからな」
――大切な嫁。
その言葉が胸に落ち、じんわりと温かさが広がる。
大切に思われている、その事実が嬉しかった。
「まあ、私なら、もう二、三発は殴っていたがな」
そう言って公爵様は、からりと笑いながらアディエルに視線を向ける。
「……父上、昨日と言っていることが違いますよ」
抗議するような視線を向けるアディエルに、公爵様は意にも介さず笑い続けた。
「当たり前だろう。お前はまだ“小”公爵でしかないのだから」
わざとらしく“小”を強調され、アディエルは一瞬複雑な顔をしたあと、小さく息を吐いて苦笑した。
「それで、だ」
公爵様は軽く咳払いをし、表情を引き締める。
その変化に、自然と背筋が伸びた。
「君たちの結婚式を、いつにするか決めねばならん」
――結婚。
その言葉に、思わず両手を握りしめる。
結婚すれば、名実ともに私はランフォード公爵夫人になる。
私に務まるのだろうか。
その覚悟は、本当にあるのだろうか。
急に現実味を帯びた未来に、不安が胸をよぎる。
その時、強張った手が、ふわりと温もりに包まれた。
隣を見ると、アディエルが優しく微笑んでいる。
私の迷いを包み込むような、その笑顔。
――大丈夫。
そう言われた気がして、私は小さく頷いた。
「準備もありますから……秋頃を考えています」
アディエルがしっかりと公爵様を見据えて告げると、夫妻は満足そうに頷く。
「フィオナは、それでいい?」
「……うん」
そう答えると、アディエルはほっとしたように微笑み、少し照れたように視線を彷徨わせた。
「できれば……フィオナの誕生日に合わせて、式を挙げたいんだけど」
「え?」
思わず目を瞬かせると、公爵夫妻は楽しそうに笑い出す。
「あらあら。ロマンチストなところは、あなたに似たのかしら」
「いやいや、まだまだ、だな」
顔を見合わせて笑い合う二人に、居た堪れなくなったのか、アディエルは立ち上がると私の手を取り、部屋を出ようとする。
慌てて夫妻に挨拶をすると、二人は柔らかな笑顔で見送ってくれた。
互いに手を取り、穏やかに微笑み合う公爵夫妻の姿に、ふとアディエルと私の姿が重なり、胸の奥がきゅっと高鳴ったのだった。




