81話
雨の中、どれほどの時間が経ったのだろう。
このまま帰ることも、だからといってアディエルを追いかけることもできず、私はただ、その場に立ち尽くしていた。
「あの……」
遠慮がちに掛けられた声に振り向くと、御者が困ったような表情でこちらを伺っていた。
彼もまた雨に打たれ、全身が濡れている。
これ以上ここに居続ければ、迷惑をかけてしまう。
「ごめんなさい……」
そう呟き、馬車へ乗り込む。
慌てて御者が手を差し出してくれたが、私は小さく首を振って断った。
いつも、アディエルが支えてくれていた。
冷え切った自分の手に、胸が詰まる。
一人きりの馬車の中。
アディエルのジャケットを抱きしめるが、そこに彼の温もりは、もう残っていなかった。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
二人で舞踏会を楽しみ、一緒に公爵家へ帰るはずだったのに。
今夜も、きっと素敵な夜になると疑いもしなかったのに。
「……エル」
そっと名前を呼んでみても、返事はない。
『フィー』
耳の奥に残る、あの優しい声が胸を締め付けた。
目を開け、窓の外を見る。
烟る雨の向こうで、王宮の灯りが少しずつ遠ざかっていく。
――どうして、追いかけなかったんだろう。
目を閉じると、怒りに燃えるアディエルの瞳が蘇る。
あれほど感情を露わにした彼を、私は今まで見たことがなかった。
それでも。
こんなふうに一人で苦しくなるくらいなら、勇気を出して追えばよかった。
胸に広がる後悔を振り払うように、私は手にしたアディエルのジャケットへ顔を埋めた。
やがて馬車は、静かに動きを止めた。
降りてはみたものの、なかなか足が前へ進まない。
きっと、今夜の私の醜態は、すでに公爵家にも届いているだろう。
合わせる顔がなかった。
一人、立ち尽くしていると、馬車の音に気付いたのか、レイラとマーシャ、そして夫人が心配そうな表情で姿を現した。
ずぶ濡れの私を見るなり、夫人は手にしていたタオルを広げ、そっと包み込んでくれる。
「まあまあ……こんなに冷えちゃって」
その優しい声と温もりに、堪えていた涙が溢れ出した。
声を殺して泣く私の背を、夫人は慰めるように撫でてくれる。
「まったく……大切な婚約者を一人で帰すなんて。あの子ったら、何をしているのかしらねぇ」
――まだ、私を婚約者として迎えてくれるのか。
「さあ、お風呂の準備ができていますよ」
マーシャの声に顔を上げると、彼女は優しく微笑んでいた。
その隣でレイラも、心配そうにしながら微笑んでいる。
小さく頷き、二人に手を引かれて、私はゆっくりと公爵家の中へ足を踏み入れた。
風呂を終え、部屋へ戻ると、私はベッドに蹲った。
枕元に置かれたクマのエルを引き寄せ、強く抱きしめると、また涙が溢れてくる。
アディエルは、今どうしているのだろう。
格下とはいえ、侯爵家の人間に手を上げたのだ。
きっと後処理や説明に追われているに違いない。
彼が帰ってきたら、会いに行こう。
迷惑をかけてしまったことを、ちゃんと謝りたい。
何より――アディエルの顔が見たかった。
けれど、その夜。
アディエルが屋敷へ戻ることはなかった。




