76話
「見て、アディエル! この花、一年に一度しか咲かない花なんだって!」
私は手にした本を指差しながら、隣のアディエルに興奮気味に話しかけた。
サハル式舞踏会が終わると、ラシード王子とお付きの人々がやってきて、昨夜の言葉通り、刺繍の美しい羽織物を贈ってくれた。
その際、サハル王国で発行されている本も一緒に手渡されたのだ。
寝支度を終えた私たちは、ベッドに並んで横になりながら、その本を眺めていた。
「ええっと……さむ、る……?」
花の名前を声に出して読んでみるが、サハル王国の発音は難しい。
「シャムシュリール。……“暁の祈り”って意味だよ」
アディエルの綺麗な発音に、思わずまじまじと彼の顔を見つめてしまった。
「どうしたの?」
視線に気づいたアディエルが首を傾げる。
「アディエルって、サハル王国の言葉が話せるの?」
そう問いかけると、彼は小さく頷き、苦笑いを浮かべた。
「話さざるを得ない状況だったからね。……すごく、勉強した」
その表情だけで、どれほど大変だったのかが伝わってくる。
気になって本を閉じ、身を乗り出すと、アディエルは私の期待に満ちた視線を受け止めて、話を続けてくれた。
「初めてサハル王国と会合を持った時、ラシード王子――サハル側は、自国の言葉でしか話さなかったんだ」
その言葉に、思わず首を傾げる。
ラシード王子は、ベリオン王国の公用語でもある大陸語を、流暢に話していたはずだ。
それに――
「通訳の人は?」
公的な会合に通訳がいないはずがなく、そう尋ねると、アディエルは当時を思い出したのか、可笑しそうに笑った。
「いたよ。ただ……おじいさんだった」
「おじいさん?」
状況が想像できず、思わず声を上げる。
「うん。耳の遠い、おじいさん」
「どうして、そんな……」
「内戦の問題に、周辺諸国からの干渉。……ほんの少しの隙で、国を乗っ取られる可能性もあるからね」
なるほど、と納得する。
相手が信用に値するかを、試していたのか。
そう納得して頷くと、アディエルはくすくすと笑った。
「ラシード王子のことだから、慌てる僕たちを見たかっただけかもしれないけど」
豪快に笑うラシード王子の姿を思い出す。
確かに、あの王子ならやりかねない。
「それで、悔しくなって猛勉強したんだ」
何でもないことのように言うが、短期間で身につけるには、相当な努力が必要だったはずだ。
でなければ、あんなに美しい発音になるはずがない。
尊敬の念が胸に広がり、そっとアディエルの手を握った。
「アディエルの努力が、ラシード王子との友情につながったのね」
その友情は、国と国との関係にも影響する。
……もし、サハル王国との関係が悪くなったら。
アディエルとラシード王子の友情にも、ひびが入ってしまうのだろうか。
そう考えると、胸の奥が少しだけ切なくなり、アディエルの顔を見つめた。
視線が合うと、彼は優しく微笑む。
この二日間で見た、二人の姿を思い出す。
文句を言いながらも柔らかく笑うアディエル。
楽しげに会話を弾ませるラシード王子。
二人の間には、国を越えた友情があるような、そんな気がした。
「……それより」
アディエルの声に、顔を上げる。
「フィオナは、サハル語をいつ勉強したの?」
不思議そうに見つめられ、私は少し間を置いて答えた。
「私……国外に行きたかったの」
そう言いながら視線を落とし、胸の内を語り始める。
セレーナの妹として生まれ、常に比べられる日々。
セレーナのようになれと言われ、真似をしても、決して同じにはなれず、また比べられる。
その繰り返しが、息苦しかった。
そんな時、本の中に広がる他国の物語は、胸を高鳴らせてくれた。
剣を持ち、誇りのために戦う女性たち。
信念のために筆を取る女性たち。
――他の国に行けば、私も“自分”を持てるのではないか。
そんな夢を、抱いたことがあったのだ。
「……だから、色んな国の言葉を勉強してたの」
視線を落としたまま微笑むと、アディエルがそっと頭を撫でた。
「……今も、国を出たいと思ってる?」
縋るような響きに顔を上げると、アディエルは切なそうな表情をしていた。
その問いの意味を、ゆっくりと考える。
――今も、国を出たいか。
「他の国に行ってみたいとは思ってるけど……」
アディエルの翡翠色の瞳を見つめる。
揺れる翡翠の瞳に、吸いこまれそうだ。
自然と、素直な気持ちが口をついた。
「……アディエルと、一緒がいいな」
今も広い世界への憧れはある。
けれど、どこかへ行くなら、隣にはアディエルが居て欲しい。
その想いを込めて微笑むと、彼は一瞬目を見開き、力強く抱きしめてきた。
「僕が、連れて行ってあげる」
「うん……色んな国に行って、二人で公爵家に帰ろうね」
そう告げると、アディエルの腕に、さらに力がこもる。
少しだけ苦しいけれど、それ以上の安心感に包まれて、私はそっと目を閉じたのだった。




