75話
サハル王国の装いに身を包み、アディエルと共に大広間へ向かった。
一歩足を踏み入れた瞬間、柑橘系の澄んだ香りに包まれる。
各所に置かれた香炉から、白い香煙が立ち昇っていた。
「暗いから、気をつけて」
そう言われ、差し出された腕にそっと手を添える。
天井のシャンデリアは明かりが落とされ、代わりに様々な花の形を模したランタンが、やわらかな光を放っていた。
昨日の光に満ちた雰囲気とは異なり、光を抑えた会場は、まるで月夜の宴のようだ。
「綺麗……」
思わず漏れた呟きに、アディエルが小さく笑う気配がした。
「一緒に来られてよかった」
添えた手の上から、さらにアディエルの手が重ねられる。
二人で異国を訪れたような気分になり、思わず彼の肩に頭を寄せた。
いつか、こうして旅ができたら――そんなことを考えていると、アディエルがそっと囁く。
「……新婚旅行は、色んな場所を周ろう」
「……うん」
少し照れくさいけれど、二人で様々な国を巡る未来を思い描くだけで、自然と頬が緩んだ。
「やあ、お二人さん」
声を掛けられて振り向くと、ラシード王子とロベリア王子が揃って立っていた。
二人ともサハル王国の装いを纏っている。
私は軽く頭を下げた。
「ご挨拶申し上げます、ラシード王子殿下、ロベリア王子殿下」
「そう畏まらないでくれ。サハルの宴は、気楽に楽しむのが伝統だ」
ラシード王子の言葉に顔を上げると、二人は柔らかく微笑んでいる。
その気さくな雰囲気に、自然と肩の力が抜けた。
「二人とも、よく似合ってるじゃないか」
ロベリア王子の言葉に、私はそっとアディエルへ視線を向けた。
柔らかなクリーム色の上衣は、ベリオン王国では珍しい詰襟で、膝下まで身丈がある。
襟元から胸元にかけて金糸で施された刺繍が、美しく光を受けていた。
「どうだい? サハルの意匠は」
誇らしげなラシード王子の言葉に、納得するように頷いた。
「とても美しいです」
そう答えながら、思わずアディエルの胸元の刺繍を指でなぞる。
「遠目から見ると抽象的な幾何学模様ですが、近くで見ると、太陽や樹木のモチーフになっているんですね」
太陽神を信仰するサハル王国。
太陽の光を思わせる線に沿った波模様は、海か砂漠を表しているのだろうか。
間近で見るほど、新しい発見があり、いつまでも眺めていたくなる。
――と、その時。
刺繍をなぞっていた指先を、そっと握り込まれた。
「これ以上は、二人きりの時にして」
はっと顔を上げると、アディエルは苦笑いを浮かべている。
慌てて後ろを振り返ると、ラシード王子とロベリア王子が、可笑しそうに笑いを堪えていた。
「……失礼いたしました」
周囲を忘れて夢中になっていたことが、急に恥ずかしくなる。
「いや、サハルの刺繍を気に入ってもらえて光栄だよ」
「それに、楽しい光景も見られたしね」
からかうような二人の笑顔に、一層恥ずかしくなった。
その後も四人で話していると、弦楽器の音が響く。
数人のサハル王国の人々が、見たことのない楽器を奏で始めた。
横抱きにする弦楽器、木で作られた横笛、筒状の打楽器。
初めて耳にする異国の音楽。
会場の雰囲気も相まって、自分が別世界にいるような、不思議な感覚に包まれる。
「フィオナ嬢をダンスに誘いたいところだが、アディに恨まれたら国際問題になりかねないからね」
そう笑い手を振るラシード王子は、音楽隊の方へと去っていった。
「さすがに、自国の王子の命には逆らわないだろう?」
ロベリア王子は挑発するような視線をアディエルへ向け、芝居がかった仕草で手を差し出す。
思わずその手を取ろうとした――が、その前にアディエルに手を絡め取られた。
「内戦を起こしたくなければ、その手を引っ込めてください」
微笑みながら毒を含ませるアディエルに、ロベリア王子は快活に笑う。
「まったく、次期公爵は器が小さいな」
「人の婚約者にちょっかいを出す暇があるなら、さっさと身を固めてください」
その言葉に、ロベリア王子は心底嫌そうな顔をした。
「これ以上小言を言われる前に、邪魔者は退散するよ」
肩を竦め、その場を離れかけたロベリア王子は、こちらを振り返ると「良い夜を」と一言残し、去っていった。
王子の背を見送ると、アディエルは私の手を引いた。
「踊ろう」
その微笑みに、私は思わず首を振る。
「私、サハル王国のダンスは知らないから……」
ベリオン王国のダンスですら、やっと身につけたばかりだ。
見様見真似で踊れる自信はない。
けれど、アディエルは手を離さず、そのまま会場の中央へ向かってしまう。
「ア、アディエル……!」
「大丈夫だから」
そう言われ、渋々ついていくと、彼と向かい合う位置に立たされた。
「両手を首に」
言われるままに従うと、アディエルは両手を私の背中へ回す。
抱き合うような体勢に、一瞬で顔に熱が集まった。
「あとは、音楽に合わせるだけ」
そう言って、アディエルは弦楽器を奏でるラシード王子へ視線を送る。
一拍置いて、音楽ががらりと変わった。
ゆったりとした、甘い調べ。
周囲を伺うと、同じように抱き合う姿勢で、音に合わせて身体を揺らす人々がいる。
「フィオナ、僕を見て」
囁かれて視線を上げると、会場を包む音楽よりも甘い笑顔が、そこにあった。
視線が絡み合い、アディエルがゆっくりと動き出す。
不思議と、周囲の視線は気にならなかった。
薄明かりのせいなのか、アディエルの腕の中だからなのか。
理由は分からない。
けれど今は、この時間を大切にしたい――そう思い、私はそっとアディエルに身を委ねたのだった。




