68話
アディエルに手を引かれ、大きな扉の前に辿り着いた。
扉を開ける前、アディエルは立ち止まり、こちらを振り向く。
「フィオナ……僕は、身の回りのことは自分でするから、使用人を置いていないんだ」
「うん」
「だから、その……不便をかけるかもしれないけれど、それでもいい?」
先ほどの戸惑いは、私が困らないかを気にしてくれていたからなのだろうか。
「大丈夫だよ。私も、自分のことは自分でできるから」
安心してほしくて微笑むと、アディエルは一度口を開きかけ、けれど何も言わずに扉を開いた。
室内に入ると、大きな机とソファセットが目に入った。
公爵邸の執務室を思わせる落ち着いた空間に、ここで仕事をするのだろうかと、思わず視線を巡らせる。
「フィオナ、こっち」
呼ばれて近づくと、アディエルは部屋を一つずつ案内してくれた。
扉の一つは給湯設備の整った部屋へ。
もう一つを開くと、大きな鏡の奥に浴槽が見える。
見慣れない設備に、まるで旅先に来たみたいだと胸が躍った。
最後に、ひときわ大きな扉の前で、アディエルはわずかに動きを止める。
「えっと……ここが、その……寝室なんだけど」
「うん」
歯切れの悪さに首を傾げながら頷くと、アディエルはしばらく私を見つめ、意を決したように扉を開いた。
正面には大きな窓があり、星が瞬く夜空が広がっている。
そして、その奥に置かれた大きなベッドが一つ。
「……ベッドが、一つ」
思わず零れた呟きに、隣のアディエルがびくりと肩を揺らした。
「あ、あの……もちろん、僕はソファで眠るから……!」
「ダメだよ!」
反射的に否定してしまう。
このあともアディエルは朝早くから仕事がある。
ベッドでしっかり休んでほしいし、そもそもここは彼の部屋だ。
「私がソファで寝るから、アディエルはベッドで休んで」
「フィオナに、そんな思いはさせられないよ」
「私だって、アディエルが無理して眠るのは嫌だよ」
互いに譲れず、言葉は平行線を辿る。
……やっぱり、押しかけるべきじゃなかった。
俯いてしまった私の手を、アディエルがそっと取った。
「……とりあえず、着替えようか」
「うん……」
頷いたものの、着替えなど持ってきていない。
勢いだけで来てしまった自分が、少し情けなくなる。
「フィオナ、こっち」
手招きされてついていくと、大きな衣装部屋に案内された。
中には、アディエルのスーツや礼服が整然と並んでいる。
そして、彼が指さした一角には、女性用のドレスや小物まで揃っていた。
「……これは」
知らない誰かの物だろうか。
それとも、セレーナの?
そう考えた瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
聞きたいのに、答えを聞くのが怖くて言葉にできない。
固まっている私に、アディエルは慌てたように口を開いた。
「それは……フィオナのために用意してあるんだ」
「え?」
顔を上げると、アディエルは耳まで赤くなっていた。
「その……何かあった時に、と思って」
“何か”の意味は分からなかったけれど。
他の誰でもなく、私のためだと知っただけで、胸の力がふっと抜けた。
「……ありがとう」
微笑み、そう伝えると、アディエルは視線を彷徨わせたまま、静かに頷くだけだった。




