55話
足を引き、ターンをする。
音楽の終わりに合わせて静かに足を止め、ゆっくりとお辞儀をした。
「はい、よろしいですよ」
その声に顔を上げる。
乱れた息を整えるように、深く息を吐いた。
――今朝、目が覚めたら自分の部屋にいた。
昨夜、いつの間にか眠ってしまった私を、アディエルが部屋まで送り届けてくれたのだと聞き、申し訳なさが胸をよぎる。
ふと枕元を見ると、クマのエルに持たせるように、一枚の紙が立てかけてあるのに気づいた。
『良い一日を』
たった一言。
けれど、綺麗に整った字はすぐにアディエルのものだと分かって、思わず頬が緩んだ。
朝から彼の言葉に励まされた気分になり、何でも出来るような気がしてしまう。
そんな自分の単純さが、少し可笑しい。
今もこうして、苦手なはずのダンスのレッスンさえ楽しいと感じているのだから。
「フィオナ様、とても上達されましたね」
そう声をかけてくれたのは、デンゼルが必死に探してくれたダンスの講師――ファビオ先生だった。
物腰は柔らかいが、指摘は的確。
なにより、拙い私の動きの中から良い点を見つけ出し、それを伸ばす練習方法を考えてくれる人だ。
「ありがとうございます」
「ですが、まだ少し力が入り過ぎていますね」
「はい……」
ステップを間違えないよう意識するほど、どうしても体が強張ってしまう。
「基本的な動きは、もう十分身についています。今日からは、パートナーと一緒に踊る練習をしましょうか」
「……足を踏んでしまいそうで、不安です」
正直に告げると、ファビオ先生は楽しそうに笑った。
「リードできない男の足など、存分に踏んで差し上げてください」
「は、はぁ……」
戸惑いながら頷くと、ファビオ先生はすっと姿勢を正し、右手を差し出した。
「一曲、踊っていただけますか?」
いつもの穏やかな雰囲気とは違う、美しい佇まいだった。
「……はい」
そう答え、手を取ろうとした――その時。
横から伸びた手に、動きを止められた。
驚いて振り向くと、そこにいたのは息を切らしたアディエルだった。
「ア、アディエル?!」
この時間にいるはずのない彼の姿に、思わず目を見開く。
「フィオナの、パートナーは……僕だから」
走ってきたのだろう、彼の肩は小さく上下していた。
「おやおや」
ファビオ先生が、面白そうにその様子を眺める。
「小公爵様は、意外にも……ですね」
意味深に言葉を濁して笑う先生に、そばに控えていたデンゼルが深く頷いた。
それを見て、アディエルは恥ずかしそうに二人を睨みつける。
……どうやら、私だけが意味を理解できていないらしい。
「アディエル……」
問いかけるより早く、彼は私の前に立ち、丁寧にお辞儀をして手を差し出した。
「……私と、踊っていただけますか?」
どこか追及を避けるようなその態度に、胸に浮かんだ疑問は飲み込むことにした。
ちらりとファビオ先生を見ると、彼はにこやかに頷く。
「実際のパートナーと踊るのが、一番の練習ですからね」
その言葉に、私はそっとアディエルの手を取った。
二人で練習室の中央へ進み、お辞儀を交わす。
顔を上げた瞬間、なめらかに音楽が流れ始めた。
引き寄せられると、体がこわばる。
視線はどうしても足元へ向かい、頭の中は次の動きでいっぱいだった。
「フィオナ」
「……」
呼ばれても返事をする余裕がない。
そんな私に、アディエルはくすりと笑い、そっと顎に手を添えて顔を上げさせた。
「力を抜いて」
「でも、足、踏んじゃう……」
動きを止めないままそう呟くと、彼は優しく微笑んだ。
「大丈夫。……僕だけを見て」
その囁きがひどく甘くて、あれだけ頭をいっぱいにさせていたステップの動きも、どこかにいってしまう。
けれど不思議なことに、足は自然と動いていた。
「ね、大丈夫でしょ」
そう言って、背中に回された手にそっと力がこもる。
その温もりが心強くて、私は身を委ねるように体の力を抜いた。
彼は、それでいいと言うように頷いてくれた。
曲が終わり、静かに離れてお辞儀をする。
ひとりで踊っていた時は息が上がっていたのに、今はそれほど乱れていない。
なにより、アディエルの足を踏まず、大きなミスもなく終えられたことに驚いた。
瞬きをしていると、ファビオ先生の拍手が響いた。
「流石ですね、小公爵様」
感心したように頷きながら、先生は続ける。
「男性のリードが上手ければ、足を踏まれることなど、ありません」
そう言ってウィンクする姿は、どこか満足げだった。
――なるほど。
私はアディエルの技術に支えられて、踊れていたのだ。
自分の苦手な部分を、自然に補ってくれる。
そんな関係が、なんだか嬉しい。
「フィオナが、ちゃんと基礎を身につけていたからだよ」
そう言って、頭を撫でられる。
その一言が嬉しくて、自然と笑顔がこぼれた。
……どうやら私は、アディエルに褒められるのが、一番嬉しいらしい。
その後も、彼は何曲か練習に付き合ってくれた。
終わる頃には、窓から差し込む光はオレンジ色に変わっていた。
「最初はどうなることかと思いましたが、お二人を見て安心しました」
ファビオ先生の言葉に、やはり私の踊りは心配されるほどだったのだと苦笑する。
「頑張りましたね、フィオナ様」
そう言われて、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「……先生のおかげです」
微笑むと、隣からアディエルの咳払いが聞こえた。
「これからは、僕が練習に付き合うから……もうファビオ卿に来ていただく必要はないのでは?」
真顔でそう宣言すると、ファビオ先生は堪えきれず声を上げて笑った。
「本当に、小公爵様は……」
笑い続ける先生の後ろで、デンゼルが呆れたように首を振る。
アディエルは恥ずかしそうにそっぽを向いた。
やはり、私だけが事情を理解できていないようだ
けれど――
不思議と嫌な気持ちはしなかった。
笑い声に包まれた温かな空気の中、隣にアディエルがいる。
それだけで、私の胸は満たされるのだった。




