36話
公爵家での日々は、とても穏やかに過ぎていった。
公爵夫妻とお茶をしたり、アディエルと本を読んだり。
あまり動き回れない私を気遣って、アディエルは毎日数冊の本を持ってきてくれた。
どれも私の好みに合うものばかりで、読み終えた後に感想を語り合う時間が、何より楽しかった。
そんな穏やかな日々の中で、ついに足の包帯が取れ、医師からも完治のお墨付きをもらうことができた頃、私の家族が公爵家へ招かれ、食事会が開かれた。
父と母、そしてセレーナ。
レオリオの姿がなかったのは、きっとアディエルの配慮なのだろう。
「まさか、フィオナが小公爵様と結婚するだなんて、思いもしなかったわね」
母は上機嫌に笑い、その隣で微笑むセレーナは今日も美しい。
いつものくせで、公爵夫妻に見比べられるのではと不安になってしまうが、夫妻の私に向ける笑顔を見ると、気持ちが立て直せた。
父と公爵様はワインやブランデーの話に花を咲かせ、母とセレーナは夫人とお茶の話をしている。
終始和やかな空気のまま、食事会は終わりを迎えようとしていた。
――しかし、食後のお茶の時間。
母がふと、心配そうに口を開いた。
「フィオナは……ご迷惑をお掛けしていませんか?」
その問いに、公爵夫妻はすぐに微笑んで首を振る。
「フィオナさんがいてくれて、公爵家は一段と明るくなりましたよ」
夫人の言葉が、胸に沁みるほど嬉しかった。
しかし、母は眉を寄せる。
信じられない、とでも言いたげな表情だった
「そうなんですか?…フィオナは、不器用な子ですし、セレーナと違って気立てが良い訳でもありませんから…ご迷惑をお掛けしているとばかり…」
母親として、心配からくる言葉なのだと頭では理解しているが、母のセレーナと比べる言葉が胸に突き刺さる。
「セレーナは、なんでも器用にこなしますし、親の贔屓目なしに花がありますでしょう?…フィオナにはそういった所がありませんから、正直公爵夫人として務まるのか心配で…」
母がこんな風に話すのは今に始まった事ではない。
何を話していても、セレーナを称賛する言葉に変わってしまうのだ。
そしてその度に、セレーナが当然の様に微笑むだけなのも、見慣れた光景だ。
しかし、公爵夫妻の怪訝な表情、アディエルの怒りの滲む表情を前にしても話を続ける母の無作法が、とても不快だった。
「ですから、セレーナが婿を迎えてくれて、どれだけ安心を…」
話の途中、アディエルが我慢できないとばかりに立ち上がろうとした。
その時。
「――やめないか」
父の低く、厳しい声が室内に響いた。
父は立ち上がり、公爵夫妻とアディエルに深く頭を下げる。
「妻の無礼、心よりお詫び申し上げます」
「……謝罪を受け入れよう」
公爵様が静かに答える。
その表情は、先ほどまでの穏やかさを消し、格上貴族としての威厳を纏っていた。
父は一度頭を下げ、顔を上げて公爵様をまっすぐに見据える。
「そして――これから話す私の無礼も、お許しください」
父が何を言い出すのか、不安で身体に力が入る。
娘として止めるべきかと逡巡していると、父は静かに口を開いた。
「フィオナは、とても聡明な子です」
その一言で、空気が止まった。
「本をよく読み、人の話をよく聞き、知らないことを知ろうとする探求心がある。そして、得た知識を正しく使う賢さを持っています。礼儀正しく、他人を思いやれる、優しい子です」
思いもしなかった言葉に、視界が滲む。
「普通なら、不束者だと頭を下げて送り出すのでしょうが……」
父は言葉を切り、私を見て微笑んだ。
「私は、フィオナが立派に公爵家の支えになれると、自信を持って送り出しましょう」
父の言葉が終わると、公爵夫妻は穏やかに微笑み、深く頷いた。
私は、とうとう涙を堪えきれなかった。
幼い頃から、父は多くの本を与えてくれた。
様々な場所へ連れて行き、問いを投げかけ、答えが見つからなければ、一緒に考え続けてくれた。
――その意味に、ようやく気付けた気がした。
父は私に、知識と礼儀、そして自分で考える力を授けてくれていたのだ。
セレーナと比べ、欠けたものを見るのではなく、
自分の手の中にあるものに気づき、自信を持てるよう願いを込めて。
父の言葉に、私自身がセレーナを中心に物事を見ていたことに気付く。
そして――父が、どれほど私を見てくれていたのかにも。
涙が止まらない私を、アディエルがそっと抱き寄せてくれた。
その手の温もりが、私を肯定してくれているようで、胸がいっぱいになった。




