32話
アディエルは、私を抱えたまま公爵様の執務室へと向かった。
扉が開かれる直前、なんとかお願いして、腕の中から下ろしてもらう。
執務室に入ると、公爵様と夫人が並んで立っていた。
「おはようございます、公爵様、夫人。」
スカートの裾を摘まみ、お辞儀をする。
ふらつきそうになる私を、アディエルがそっと支えてくれた。
そんな私たちを、夫妻は微笑ましそうに見つめ、にこやかに挨拶を返してくれる。
「いい朝だな」
「昨日は、よく眠れたかしら?」
その一言に、私は一度深く息を吸い、背筋を伸ばして頭を下げた。
「昨夜は、我がソラリス家の者がご迷惑をおかけしました。」
先触れもなく押しかけてきたレオリオとセレーナの非礼を詫びる。
あれほど騒ぎになったのだ。夫妻の耳に入っていないはずがない。
「顔を上げなさい。」
公爵様の言葉に促され、おずおずと顔を上げる。
そこにあったのは、穏やかな笑顔だった。
「フィオナさんが謝る必要はありませんよ。」
叱責されてもおかしくない状況で、夫人の温かな言葉が胸に染みる。
張り詰めていた緊張が、少しずつほどけていく。
——どうして、公爵家の人たちは、こんなにも優しいのだろう。
「立っているのも辛いだろう。座りなさい。」
公爵様に促され、アディエルの助けを借りてソファに腰を下ろす。
その様子を見た夫人が、心配そうに眉を寄せた。
「まあ……昨日より酷くしてしまったのね」
「お医者様は、三日ほど安静にしていれば良くなると仰っていました。……お医者様まで呼んでいただいて、どうお礼をすればいいのか……」
公爵家の厚意を受けるたび、何か返さなければと考えてしまう。
けれど、たかが伯爵令嬢の私にできることなど、そう多くはない。
「ふふ。なら、ここにいる間、お喋りの相手になってちょうだい」
「私は、ブランデーの話を聞かせてもらおうかな」
礼など不要だと言えば、私が気に病むことを分かっているのだろう。
私にもできる役目を、さりげなく示してくれる夫妻の心遣いが嬉しかった。
「それで? 二人揃って、どんな用件かな?」
公爵様が一つ咳払いをして問いかける。
その言葉に、私とアディエルは自然と背筋を伸ばした。
「フィオナと、結婚したいと思っています。」
そう告げると同時に、アディエルはそっと私の手を握った。
突然の温もりに、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
「……フィオナさん、それで本当に良いのかい?」
探るような視線に、思わず手に力が入る。
それでも目を逸らさず、はっきりと頷いた。
「はい。」
私の返事に、アディエルの手に力が入ったのが伝わった。
「ソラリス伯爵夫妻からは、昨夜すでに了承を得てきました。」
真剣な眼差しで告げるアディエルに、夫妻はしばし沈黙する。
張り詰めた空気。
どれほどの時間が流れたのか。
先に口を開いたのは、公爵様だった。
「……アディエル。覚悟はできたのか?」
「はい。」
迷いのない答え。
——覚悟とは、何を指すのだろう。
私の疑問を察したのか、公爵様はふっと表情を和らげた。
「アディエルは、公爵位を継ぐことを拒んでいたんだよ」
「え……?」
思わず彼を見ると、アディエルはばつが悪そうに苦笑した。
「爵位の継承に、婚姻は重要だからね。……それを分かっていて、縁談から逃げ回っていたんだから、たちが悪い」
やれやれ、という仕草で笑う公爵様。
その様子から、口ではそう言いながらも、息子の意思を尊重していたことが伝わってくる。
「ふふ。私にも娘ができるのね」
「聡明なお嬢さんが嫁いでくれて、公爵家も安泰だ」
嬉しそうに微笑む夫妻の姿に、胸がじんと熱くなる。
——私は、受け入れてもらえたのだ。
ソラリス家で露骨に蔑ろにされたわけではない。
けれど、常にセレーナを中心に回る屋敷の空気は、息苦しかった。
こうして居場所を与えられたことで、初めて楽に息ができる気がする。
溢れそうになる想いをこらえ、私は繋がれた手をそっと握る。
アディエルもまた、静かに、けれど確かな力で握り返してくれた。
その温もりが、これからの未来を約束してくれているようだった。




