17話
会場に足を踏み入れた瞬間、ざわめきが一段と大きくなった。
「ソラリス伯爵家のご長女は、いつ見ても美しいわね」
「セレーナ様のドレス、素敵」
「妹の方は……」
「あらやだ、髪が……」
そんな囁きが耳に届き、胸の奥がひやりと冷える。
思わず俯いた、その時だった。
「ゴホン、ゴホン!」
隣を歩く父が、わざとらしく咳払いをしてみせた。
まるで、周囲の声など耳に入れるなと言うように。
父の不器用な優しさに、胸の奥にじんわりと温かさが戻る。
「……下手くそだよ」
小さく囁いて笑うと、父は照れくさそうに口元を緩めた。
その笑顔に、前を向いて歩く勇気をもらった気がした。
母とセレーナは、すぐにご婦人たちの輪に加わり、華やかな会話に花を咲かせている。
その中へ入る気にはなれず、私は父の腕にそっと寄り添い、集まってくる人々に挨拶を返していた。
すると背後から、よく通る明るい声が響く。
「伯爵!」
振り返らなくても分かる。
レオリオの声だ。
「舞踏会の席でお会いするのは、久しぶりですね」
父がそう返す。
その後ろから、私はそっと顔を出した。
視線が合う。
「フィオナ、久しぶり!」
あの日から、ずっと会っていなかった。
久々に見るレオリオの、変わらない輝く笑顔に、今もなお胸が高鳴る。
「……久しぶり」
そう答えていると、レオリオの存在に気づいたのだろう。
セレーナと母が、こちらへ戻ってきた。
「セレーナ! やっと会えた!」
「やっとって……昨日も会ったじゃない」
二人のやり取りを見て、胸の奥が痛み、思わず胸元を押さえる。
「あれ? その髪留め、新しいやつだろ。似合ってる」
「ふふ、ありがとう」
……そうか。
レオリオは、セレーナの小さな変化にはすぐ気づくのか。
私のリボンには、一度だって目を向けてくれた事はなかったけれど。
「本当に仲がいいわね。レオリオ様が我が家に婿入りしてくださればいいのに」
意味ありげに笑いながら、母が父に声をかける。
父は一瞬、私に視線を向けてから、苦笑するだけで何も言わなかった。
その言葉に、レオリオとセレーナは互いの顔を見合わせ、照れたように微笑む。
「実は……」
口を開こうとしたセレーナを、レオリオがそっと制し、姿勢を正した。
——聞きたくない。聞いちゃダメ。
本能が叫ぶ。
けれど、足が動かない。
そんな私を置き去りにして、レオリオが静かに告げた。
「セレーナと、結婚の約束をしました」
ああ……。
あの日訪れたあのレストランに、セレーナも行ったのだろうか。
ロマンチックな歌劇を楽しみ、そして——あの庭園へ。
「まあ! 本当なの? あなたは知っていたの?」
喜びに目を輝かせる母が、父に問いかける。
父は「ああ……」と短く答えた。
「私は侯爵家の次男です。伯爵が受け入れてくださるなら、伯爵家に入ろうと思っています」
「まあ!もちろん大歓迎よ!ねえ、あなた」
「ああ……そうだな」
伯爵家に入る—— その言葉に、目の前が暗くなった。
ソラリス伯爵家には、私とセレーナしかいない。
婿を迎え、家を継がせるのは自然な流れだ。
母が喜ぶのも、父がそれを受け入れるのも、当然なのだ。
……どうして、気づかなかったのだろう。
この先、家にいる限り、私は二人の姿を見続けなければならない。
——もう、限界だ。
ここにいたくない。
二人の話を聞きたくない。
喜ぶ両親の顔も、見ていられない。
私は、逃げ出すようにその場を離れた。
「フィオナ?!」
驚く母の声。
それを振り切るように、私は走り出した。
何も聞きたくない。
溢れ出る想いが、止められない。
——どうして、私じゃないの?
出会ったのは、私の方が先だったのに。
好きになったのは、私の方が先だったのに。
セレーナは、いつだって皆に愛されているのに。
なんで、レオリオを選ぶの?
なんで、私からレオリオを奪うの?
……なんで私は、大切な二人を祝福してあげられないの?
とにかく遠くへ行きたくて走り続けていると、いつの間にか宮殿の庭に出ていた。
草に足を取られ、靴が脱げる。
そんなことすら気に留めず、ただ走った。
一人になれる場所へ。
少しでも、二人から遠いところへ。
庭の片隅、人影のない場所に辿り着くと、私はその場に座り込み、声を殺して泣いた。
苦しい。
どうして、こんなにも胸が痛むの。
本の中の“恋”は、甘くて楽しそうに描かれているのに。
現実は、苦しくて、辛くて、胸が張り裂けそうだ。
こんな結末になるのなら、レオリオと出会わなければよかった。
あの日、父に付いて行った幼い自分が、ひどく恨めしい。
ひとりで泣いていると、人の気配がした。
はっとして顔を上げる。
そこに立っていたのは――
アディエルだった。
この期に及んで、もしかしたらレオリオが追ってきたのではないかと期待していた自分に、嫌悪が込み上げる。
そんな私に、アディエルは何も言わず、ただ静かに近づき、そっと抱きしめてくれた。
まるで、この世界から私を隠すかのように。
堪えきれず、私は声を上げて泣いた。
胸に溜め込んできた想いが、少しでも流れ出てくれることを祈りながら。
アディエルの腕の中で泣き続けていると、ふと、彼の言葉が胸によみがえる。
――『もし、この家にいるのが辛いなら、いつでも僕のところに逃げておいで』
……逃げても、いいのだろうか。
彼の優しさに縋り、利用するような形になってしまっても。
レオリオとセレーナが寄り添って笑い合い、
それを心から祝福する両親の姿が、脳裏に浮かぶ。
その輪の中に、自分の居場所が見つけられない。
そう思うだけで胸が締めつけられ、息が苦しくなった。
もう、耐えられる自信なんて、どこにもなかった。
そっと顔を上げると、そこには変わらず、優しく微笑むアディエルがいる。
その穏やかな眼差しに、必死に保っていた一線が、静かにほどけていった。
縋るように彼の腕を掴む。
指先に力がこもり、微かに震える。
「お願い、アディエル……私と、結婚して……」




