103話
公爵邸に到着すると、レイラが足早に近付いてきた。
「フィオナ様、お帰りなさいませ」
そう言う彼女の表情は、どこか心配そうだった。
「レイラ、心配してくれてありがとう」
微笑みながらそう伝えると、レイラは少しだけ安堵したように息を吐く。
何もなかったわけではない。
けれど振り返れば、私は初めてセレーナに自分の気持ちを伝えることができた。
それは、長い間自分自身を縛り付けていた鎖を、ほんの少し外せたような感覚で。
胸の奥に、静かな誇らしさが残っていた。
部屋に戻ると、届いていた手紙に返事を書いたり、デンゼルから公爵家の家政について講義を受けたりと、忙しなく時間が過ぎていく。
気付けば、もう夕方だった。
ふと、枕元に座るクマのエルが視界に入る。
そっと抱き上げて頭を撫でると、自然とアディエルの顔が浮かんだ。
三日も休んだ後だ。
もしかしたら、今日は会えないかもしれない。
胸に込み上げる寂しさに蓋をするように、エルの頭に口付けを落とした、その時。
荒々しいノックの音が響いた。
驚いて、エルを抱えたまま扉を開けると――そこに立っていたのは、アディエルだった。
走ってきたのだろう。
彼の呼吸は少し乱れている。
「エル?」
会えないと思っていた直後だったせいで、嬉しさよりも先に驚きが顔に出てしまう。
そんな私を、アディエルは何も言わず、そっと抱きしめた。
「……セレーナに呼ばれたって聞いた」
レイラが伝えたのだろう。
視線を巡らせるが、先程まで控えていた彼女の姿はもうなかった。
私はゆっくりと身体を離し、アディエルの瞳を覗き込む。
その瞳は、心配で揺れている。
「大丈夫だよ」
そう微笑んでも、彼の眉は下がったままだった。
私はアディエルの手を引き、並んでベッドに腰を下ろす。
「本当に、嫌な思いしてない?」
座るなり、アディエルは私の頬を包み込み、確かめるように問いかけてきた。
その気持ちが嬉しくて、私は彼の手にそっと頬を擦り寄せる。
そして、今日あったことを、ゆっくり話し始めた。
静かに耳を傾けていたアディエルは、話を聞き終えると、ぎゅっと私を抱きしめる。
それから、優しく頬に口付けを落とした。
そのぬくもりに、自然と口元が緩む。
「フィー、よくやったね」
そう微笑むアディエルは、本当に嬉しそうで。
こうして隣に彼がいてくれるからこそ、私は色んなことに気付けた。
そして、セレーナと向き合うことができたのだ。
アディエルの肩に頭を預けると、彼は何も言わず、優しく髪を撫でてくれる。
まるで、今日の私をそのまま肯定してくれているようで、胸の奥が温かくなった。
ふと、セレーナに会ってから、胸の奥に燻っている想いが口を突いて出る。
「エルは……何歳の時に、セレーナに出会ったの?」
問いかけると、アディエルは驚いたように目を丸くした。
「え?!」
「何歳?」
問い詰めるように聞くと、アディエルは思い出すように視線を彷徨わせた。
「えーと……たぶん、十二歳くらいだったと思うけど」
「……ふうん。じゃあ、十年か」
ぽつりと呟くと、アディエルは理由を尋ねるように首を傾げる。
少し迷ったけれど、結局、素直に口を開いた。
「……セレーナと過ごした十年は、私の知らない十年だから」
そう呟いた瞬間、アディエルが息を呑むのが分かった。
今日、セレーナから子供の頃の話を聞いて。
正直、嫉妬したのだ。
その頃のアディエルを、私は知らない。
それが、こんなにも胸に引っかかるなんて思わなかった。
恥ずかしくなって顔を手で覆うと、すぐにアディエルに抱き締められる。
「フィー……可愛い」
そう言われると、余計に恥ずかしくなってしまう。
過ぎた時間は、どう足掻いても取り戻せないのに、その時間さえ欲しいと思ってしまう自分がいる。
――だからこそ。
「エル……これから先の時間は、私と一緒にいてね」
セレーナと過ごした時間よりも。
他の誰よりも、長い時間を共に過ごしたい。
そんな想いを込めて呟いた、その瞬間だった。
突然、アディエルに押し倒される。
驚いて顔を覆っていた手を外すと、目元を赤く染めたアディエルの顔が、視界いっぱいに広がった。
「フィー……あんまり、僕を煽るようなこと言っちゃだめだよ」
その眼差しは、冗談ではなく真剣そのもので。
「……君の夢を、叶えてあげられなくなっちゃう」
掠れるような声で囁きながら、アディエルはそっと私の唇を指先でなぞる。
その感触に、全身が甘い痺れに震えた。
思わず目を閉じると、アディエルが息を呑む。
ゆっくりと近付く気配。
唇に触れそうな距離で、絡む吐息のぬくもり。
――このまま、夢が叶わなくてもいいかもしれない。
そんな考えが一瞬よぎった、その時。
アディエルは、そっと顔を逸らし、頬に口付けを落とした。
その事にほんの少し落胆している自分がいて、内心で苦笑いを漏らと、本音がばれないように私は勢いよく、アディエルにぎゅっと抱きついたのだった。




