98話
膝をついたアディエルは、俯いたまましばらく動かなかったが、やがてそろそろと立ち上がった。
その表情は、なんとも――情けない。
「……なんで駄目か、聞いてもいい?」
今にも泣き出しそうに眉を寄せる姿に、なんだか自分がいじめているような気持ちになってしまう。
「だって……その……は、初めてのキ……口付けは、結婚式でするものでしょ!!」
言葉にするほど恥ずかしくなり、後半はほとんど叫ぶようになってしまった。
初めての口付けは結婚式で交わす――それがこの国のしきたりだ。
昔ほど重んじられてはいないけれど、少なくとも私は軽く考えたことはなかった。
「……初めて……」
アディエルは噛み締めるように呟くと、次第に口元が緩んでいく。
なんだか見てはいけない顔を見た気がして、思わず視線を逸らした。
「フィオナ……初めてなの?」
逸らしたまま小さく頷くと、アディエルが息を呑む気配がした。
ふと疑問が浮かび、視線を戻す。
「……アディエルは初めてじゃないの?」
「ま、まさか! 初めてだよ! 誰ともしたことない!!」
疑うような視線を送ると、アディエルは慌てて手を振る。
その様子に、ほっと胸をなで下ろす。
……見ず知らずの誰かに嫉妬せずに済んで、良かった。
不意に、アディエルが一歩近付く。
そっと両手で頬を包まれ、視線が絡んだ。
甘さを宿した瞳がくすぐったい。
決して、嫌ではないけれど。
「“口”じゃなければ、いい?」
そう囁きながら、頬へ唇を寄せる。
ほんの少し震えれば触れてしまいそうな距離。
高鳴る胸を押さえ、私は小さく頷いた。
次の瞬間、優しい温もりが頬に触れる。
その温もりに、以前の馬車での出来事を思い出した。
イヤリングを着けてもらった時の、あの感触はやっぱり頬に口付けられたのか。
そう考えているうちに、アディエルは反対の頬、瞼、鼻先と、そっと触れる場所を移していく。
そして、唇のすぐ脇に温もりを感じた瞬間、慌てて顔を離し、自分の口元を守るように手で押さえた。
「……口、じゃないよ」
不服そうな顔をされても、これだけは譲れない。
……幼い頃から、密かに憧れていたのだ。
愛し、愛される人と交わす、結婚式での初めての口付けに。
口を押さえたまま首を振ると、アディエルは顔を近付け、その手の甲にそっと口付けを落とした。
最後に額へ、優しい口付けが降りる。
まるで印をつけられたみたいで、胸の奥が甘くくすぐったい。
そっと見上げると、アディエルと目が合った。
彼は甘えるように頬を擦り寄せる。
「……結婚式、二回しようか」
「どういう事?」
「今すぐ教会に行って二人だけでする結婚式と、フィオナの誕生日に、皆に見せびらかすための結婚式」
「なにそれ」
あまりにも突飛な提案に、くすくすと笑いがこぼれる。
そんなこと、できるはずないのに。
けれど――
二人きりで教会に立つ姿を想像してみる。
暖かな陽の光に包まれる、誰もいない静かな教会。
それも悪くない、と思うのだった。




