95話
公爵邸に到着すると、レイラが出迎えてくれた。
「心配かけて、ごめんね」
バツが悪く謝ると、レイラは一つ息を吐き、優しく微笑んだ。
「……モンテーヌ伯爵家への転職を、真剣に検討していました」
冗談めかしたその言葉に、思わず頬が緩む。
どこへでも一緒に来てくれる――その気持ちが伝わってきて、胸の奥がじんわりと温かくなった。
その後、部屋へは向かわず、庭園へと足を運ぶ。
レイラには下がってもらい、一人でゆっくりと歩き回った。
朝露に濡れた草花の、爽やかな香りが心を少しずつ落ち着かせてくれる。
ふと、温室が目に留まった。
惹かれるように足を踏み入れると、外よりも暖かな空気に包まれる。
自然と向かう先は、温室に備え付けられたガゼボだった。
一つの椅子に腰を下ろし、ゆっくりと辺りを見回す。
――以前、この場所で、アディエルにプロポーズをされた。
ブーケを手にした、あの日のアディエルの姿が、目に浮かぶ。
色とりどりの花で作られたブーケ。
静かに微笑む、アディエルの顔。
そして――
『フィオナ・ソラリス伯爵令嬢……僕と、結婚してくれますか?』
まるで耳元で囁かれたかのように、その声は鮮明に蘇る。
思わずそっと自分の耳に触れると、指先に熱が伝わった。
その時――
「フィオナ……?」
背後から聞こえた声に、びくりと肩が震える。
振り向かなくても、誰の声かは分かっていた。
つい先ほどまで耳に残っていた、アディエルの声。
胸がドキドキと騒ぎ出す。
顔を見るのが、怖い。
それなのに、胸の奥からは彼の存在を喜ぶ気持ちが、抑えきれずに溢れてくる。
胸元を押さえると、背後でアディエルが動く気配がした。
遠くはない。
けれど、まだ彼の体温を感じられない距離。
一度、強く目を閉じる。
そして、ゆっくりと振り返った。
そこに立っていたアディエルは――ボロボロだった。
いつも整えられている髪は乱れ
シャツも皺だらけ。
目の下には、濃いクマが浮かんでいる。
以前にも似たような姿を見たことはあったけれど、今の彼は、それ以上だった。
視線が合うと、アディエルは複雑な表情を浮かべる。
安堵しているようで、苦しそうで……今にも泣き出してしまいそうな顔。
アディエルは、ゆっくりと距離を詰め、私に手を伸ばした。
「フィオナ、後で殴っていいから」
「……え?」
問い返す間もなく、私はアディエルに強く抱きしめられる。
「……無事で、良かった」
震えるその声に、胸の奥がずきりと痛んだ。
頬に触れる彼のシャツは、ひどく冷たい。
――寝ずに、待っていたのだろうか。
「……心配かけて、ごめん」
そう伝えると、アディエルは抱きしめる腕に、さらに力を込めた。
「フォンテーヌ伯爵邸にいると、連絡はあったけど……それでも、君がいない時間は、生きた心地がしなかった」
呟くようなその言葉に、胸が締め付けられる。
嬉しさの奥から、じわりと痛みが滲んだ。
不意に、アディエルの頬に触れていた、セレーナの姿が脳裏をよぎる。
私はそっとアディエルの胸を押し
その腕の中から、離れた。
顔を上げると、アディエルは不安げに瞳を揺らしていた。
その表情を見た瞬間、胸に固めた決意が、ぐらりと揺らぐ。
――このままで、いいのではないか。
こうして心配してくれるのなら、それで十分なのではないか。
けれど、脳裏にローズの言葉が蘇った。
『嫌なことは嫌だって、ちゃんと伝えていいのよ。』
私は一度、強く目を閉じる。
震えだしそうな指先を、ぎゅっと握り込んだ。
このままでは、きっとまた私は
答えも分からないままアディエルを疑い続けてしまう。
もし、まだセレーナへの想いが残っているのなら目を逸らさずに、ちゃんと向き合いたい。
アディエルの気持ちがどうであれ、私が彼を好きだという事実だけは、変わらないのだから。
レオリオの時のように
伝えられないまま終わる恋は、もうしたくなかった。
ゆっくりと目を開き、アディエルの瞳をまっすぐに見据える。
「……アディエルは……アディエルは、まだセレーナのことが……好き、なの?」
覚悟した割に、声は小さく震えてしまった。
突然出てきたセレーナの名前に、アディエルは一瞬首を傾げる。
だが、すぐにはっとしたような表情に変わった。
「あれは、違うんだ。セレーナに――」
慌てて言葉を紡ぎかけたアディエルは、途中で口を閉ざす。
短い沈黙が、ひどく長く感じられた。
「……違うな」
ぽつりと、アディエルが呟く。
「僕が臆病で、自分の気持ちを…ちゃんと伝えなかったのが悪いんだ」
自嘲するように笑うと、彼は静かに跪き、私の手を両手で包み込んだ。
いつでも振りほどけるほどの、弱い力で。
「フィオナ。昨夜、話したいことがあるって言ったの、覚えてる?」
「……うん」
昨夜の舞踏会で、一緒に踊った時のことを思い出しながら、小さく頷く。
その仕草に、アディエルの表情が、ほんの少し和らいだ。
「フィオナ……僕は、君のことが好きだ」




