94話
朝までチェスに興じていた私たちは、大きなソファに並んで朝食をとっていた。
朝になり、フォンテーヌ伯爵夫妻に挨拶をすると、ドレスのまま夜明けまでチェスをしていたせいで、すっかりボロボロになった私とローズの姿を見て、二人は呆れたように笑った。
けれど嫌な顔ひとつせず迎え入れてくれ、着替えまで用意してくれたのだった。
「今回は負けてしまったけど、また勝負しようね」
そう言いながら、大きな口でパンに齧りつくローズの姿に、思わず笑いがこみ上げる。
こうして長い時間を一緒に過ごすのは初めてで、私はローズの知らなかった一面をたくさん知ることができた。
穏やかに、上品に微笑む彼女は、いつも大人びて落ち着いて見えていたけれど——パンを頬張る姿や、チェスに負けて悔しそうに頭を掻きむしる姿はどこか幼く、親しみを感じさせる。
私の視線に気付いたローズは、少し気恥ずかしそうに口元についたパン屑を払って姿勢を正した。
「……素の姿を見て、幻滅した?」
伺うような視線に、私は首を振る。
「まさか。可愛らしくて、良いと思う」
そう伝えると、ローズはほっとしたように微笑んだ。
「それに……私だって、ローズに幻滅されてないか心配だったんだもの」
「ふふ。泣いてるフィオナも“可愛らしくて、良いと思う”」
口調を真似るローズ。
その姿が可笑しくて、二人で顔を見合わせ、声を立てて笑い合った。
しばらくして、ローズがふいに真面目な表情になり、こちらを見た。
「ねぇ、フィオナ。……小公爵様と、ちゃんと話してみたら?」
「…………」
その言葉に、すぐ返事ができなかった。
セレーナと二人でいたアディエル。
その姿を見た瞬間、レオリオの言葉が脳裏に蘇った。
『アディエルは、セレーナと会っているのかな?』
言われた時は、そんなことあり得ないと思った。
けれど今は……正直、自信がない。
もし今もセレーナへの想いが残っているのだと、彼の口から聞かされたら。
——そう思うと、胸が締めつけられた。
「……怖い」
本音がぽつりと零れ、指先が震える。
アディエルに会いたい気持ちは、確かにある。
それなのに、彼に会うのが怖かった。
震える指先を、ローズがそっと包み込むように握ってくれる。
まるで、勇気を分け与えてくれるかのように。
「怖くて、当たり前よ。……でも、このままでいいの?」
疑いを抱いたまま、彼の隣に立ち続けることはできない。
このままではいられない事は、自分でもよく分かっていた。
小さく首を振ると、ローズは握る手に力を込める。
「だったら、小公爵様が怯えるくらい、怒ればいいのよ!」
「……怒る?」
思いがけない言葉に首を傾げると、ローズはわざとらしく唇を尖らせた。
「だって、こんなに可愛い婚約者がいるのに、他の女と会う小公爵様が悪いんだもの」
そう言ってから、ふっと表情を和らげる。
「嫌なことは嫌だって、ちゃんと伝えていいのよ。……婚約者なんでしょう?」
「……いいのかな……」
迷う様に視線が揺れる。
思っている事を伝えて、本当に良いのだろうか。
醜く嫉妬するこの気持ちを。
セレーナへ想いがあっても、離れたくないと叫ぶ胸の内を。
伝えて、嫌われてしまわないだろうか。
寄せた眉間を、ローズが指で軽く弾いた。
「痛っ……」
顔を上げると、ローズは優しく微笑んでいた。
「今考えてること、全部伝えておいで。それで、もし駄目だったら……」
「駄目だったら……?」
「私のお兄様と結婚して!」
「……え?」
楽しそうに笑うローズに、思わず目を瞬かせる。
「お兄様は王立騎士団の有望株だし、なにより私と姉妹になれるわよ?」
腰に手を当て、得意気に指を振る姿がおかしくて、気付けば笑顔になっていた。
胸の奥に、じんわりと温かなものが広がる。
いつの間にか、指先の震えも止まっていた。
「……ローズ、ありがとう」
そう告げると、ローズは静かに頷いてくれた。
私は両手をぎゅっと握りしめる。
「……私、帰る」
「うん。……馬車は用意してあるよ」
ローズの言葉に視線を向けると、彼女は変わらぬ優しい笑みを浮かべていた。
その笑顔に背中を押されるように、私は立ち上がる。
アディエルに会うのは、正直怖い。
けれど、こうして支えてくれる友人がいる。
自分の気持ちを、伝えてみよう。
その先のことは――その時、考えればいい。
深く息を吸い込み、私は一歩を踏み出した。
アディエルの待つ場所へ。




