93話
「フィオナ様、少しは落ち着いた?」
「……うん」
ローズマリー様の問いに答えながら、手にしたカップへと視線を落とす。
紅茶の表面にうっすらと映る顔は、情けないほどに力のない表情をしていた。
あの王宮の庭の片隅で出会ったローズマリー様は、涙に暮れる私を、そのままモンテーヌ伯爵家へ連れてきてくれた。
何も聞かず、ただそばに居てくれたローズマリー様の存在が、ありがたかった。
けれど――
以前と同じように、こうして人様の家へ逃げ込んでいる自分が、何も変わっていないように思えて、胸の奥がちくりと痛む。
ぼうっとカップを見つめていると、ローズマリー様がぽん、と軽く手を叩いた。
その音に驚いて顔を上げると、彼女は柔らかな笑みを浮かべている。
「フィオナ様、チェスはできる?」
「うん……少し、なら」
そう答えると、ローズマリー様は立ち上がり、ほどなくしてチェスセットを持って戻ってきた。
透明なチェスの駒が、灯りを受けて美しく光っている。
「綺麗……」
「でしょう? この間一目惚れして買っちゃったの。……値段は、どうか聞かないでね」
くすくすと笑いながら話すローズマリー様を見ているうちに、つられるように、私の頬もわずかに緩んだ。
その様子に、ローズマリー様はほっとしたように、目元をやさしく下げる。
言葉にしなくても、私がどれほど心配をかけているのかが、伝わってくる気がした。
二人で向かい合い、静かに駒を動かす。
規則正しい音の中で、張り詰めていたものが、少しずつほどけていく。
そうしているうちに、ぽつり、ぽつりと――
胸の奥に溜め込んでいた想いが、言葉となってこぼれ落ちていった。
セレーナ様のこと。
レオリオ様のこと。
そして――アディエル様のこと。
過去から、今に至るまで。
「……ふふ。フィオナ様、チェスが得意なのね」
しばらく静かに駒を動かしていると、ローズマリー様が口を開いた。
その言葉に、盤上へ視線を落とす。
クイーンはすでに、王の逃げ道を塞いでいた。
「あ……」
顔を上げると、ローズマリー様は温かく微笑んでいる。
「私、チェスの腕には自信があったのに。悔しいわ!フィオナ様、今夜はとことん付き合ってね」
「え?」
驚いて目を瞬かせていると、ローズマリー様はチェスの駒を最初の位置に戻しはじめた。
「嫌なことがあった日は、お喋りするのが一番よ」
そう言って笑うローズマリー様。
——本当に、良いのだろうか。
自分の手をぎゅっと握りしめる。
それに気づいたのか、ローズマリー様は顔を上げ、愛嬌たっぷりにウィンクしてみせた。
「私に嫌なことがあった時は、たーっぷりお喋りに付き合ってね」
その言葉に、自然と笑みがこぼれる。
彼女が私を必要とすることがあれば、真っ先に飛んでいこう。
そう思わずにはいられなかった。
「ありがとう、ローズマリー様」
「ローズ」
「え?」
「ローズって呼んで。私も、フィオナって呼ぶから。……私たち、友達でしょう?」
嬉しそうに頬を染めるその姿に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「……ローズ」
そう呼ぶと、彼女はさらに笑みを深めた。
互いに微笑み合い、再びチェス盤へ視線を戻す。
父に付き合って覚えたチェス。
父以外と対戦するのは、これが初めてだった。
「次は、負けないわよ」
「私だって」
そう言って、二人でくすくすと笑い合う。
それからは真剣に、駒を進めていった。
コツ、コツ、と響く駒の音が、荒れていた胸を少しずつ落ち着かせてくれる。
結局、手を止めたのは、外から鳥のさえずりが聞こえてきた時だった。
日が昇ったことにも気づかないほど夢中になっていたのだと知り、二人で顔を見合わせる。
理由もなく可笑しくなり、声を立てて笑い合った。
静かな夜が、いつの間にか朝へと変わっていたのだった。




