第7話 告白
『黄金の翼亭』の食堂は、朝から焼き立てのパンと香ばしいスープの匂いに満ちていた。
一階のテラス席に陣取ったアリアとイグニスのテーブルには、ふんわりとしたオムレツ、新鮮な野菜のサラダ、そしてパリッとした皮のソーセージが並んでいる。
「うん、美味しい。さすが高級宿だけあって、味付けがすごく丁寧だね」
アリアが木製のフォークでオムレツを口に運び、満足げに微笑む。その神々しいまでの美貌が朝日に照らされ、周囲の宿泊客たちが思わず食事の手を止めて見惚れていたが、当の本人は全く気にしていない。
対面に座るイグニスは、いつも通りアラビアン風の服を優雅に着こなし、気怠げにスープをスプーンですすっていた。
「……ふむ。悪くない。人間が作るものにしては、及第点といったところか」
「あら、結構辛口だね。私はこれ、すごく美味しいと思うけど」
「当然だ。我はアリア、お前の作った料理の方が好きだからな。あの一年間で、我の舌はお前の味に慣らされてしまった。この程度の料理では、少々物足りん」
さらりと、しかし絶対的な確信を込めてイグニスが言った。
その言葉に、アリアの胸の奥がキュンと跳ね上がる。前世の記憶があろうとなかろうと、大好きな相手から「お前の作った料理が世界一だ」と直球で言われて、嬉しくないはずがない。
「……そ、そう? イグニスがそこまで言うなら、また今度、たくさん作ってあげるね」
「あぁ、期待している」
イグニスが満足そうに口元を歪めるのを見ながら、アリアは照れ隠しに紅茶を一口飲んだ。
朝食を済ませた二人は、今日の目的である「商人ギルド」へと向かった。
昨日と同じく、認識阻害魔法『オブスキュア』を緩くかけながら、街の中心部にある立派な大理石造りの建物へと入る。
商人ギルドの内部は、冒険者ギルドのような荒々しさはなく、小綺麗な身なりの商人たちが行き交う落ち着いた空間だった。アリアたちは受付へと進み、窓口にいた上品な受付嬢に声をかけた。
「すみません、新しく登録をお願いしたいのですが」
「はい、商人登録ですね。では、こちらの用紙に必要事項をご記入ください」
手続きは拍気抜けするほどスムーズに進行した。アリアは偽名を使うこともなく、そのまま「アリア」として登録し、イグニスも「イグニス」として必要事項を埋めていく。何の滞りもなく二つの真新しいギルドカードが発行された。
「お待たせいたしました。こちらがお二人のギルドカードになります。……それで、確認なのですが」
受付嬢が、カードを手渡しながら、少し探るような、しかし興味津々といった様子でアリアとイグニスを交互に見つめた。
「お二人は、こちらのギルドカードで『夫婦登録』をなさいますか?」
「……えっ?」
予想外の単語に、アリアは思わず素っ頓狂な声を上げた。
「ふ、ふうふ、登録……? すみません、それって一体どういうものなんですか?」
アリアが狼狽えながら問いかけると、受付嬢はプロフェッショナルな笑顔で説明を始めた。
「はい。商人ギルドにおける『夫婦登録』とは、お二人の登録情報を強固に結びつけるシステムのことです。具体的に申し上げますと、ギルド銀行の口座が完全に『共同口座』となり、どちらからでも自由に出し入れができるようになります。さらに、商人としての実績や信用ランクも『共有』されます」
受付嬢は、手元の書類をトントンと整えながら続ける。
「簡単に言えば、カード自体は二つのままで、お互いの資産や実績といった『すべてを共有する』という登録ですね。信頼関係の証として登録される方も多いですが、たとえ本物のご夫婦であっても、財布を別にしたいという理由でお使いにならない方もたくさんいらっしゃいますよ。いかがなさいますか?」
(すべてを共有する、ギルドカード……)
アリアはごくりと唾を飲み込んだ。
隣にいるイグニスに視線をやると、彼は片肘を突き、アリアがどう答えるのかを実に楽しそうに、興味深そうに観察していた。その美しい赤金の瞳が「お前はどうするのだ?」と無言で問いかけている。
最初は動揺したアリアだったが、この一年間同じベッドで寝てきた仲だ。何を今更、隠すような資産も実績もない。何より、これからもイグニスと共に生きていくと決めたのだ。
アリアの心から、すっと動揺が消え去った。
「……分かりました。その、夫婦登録をお願いします」
「かしこまりました。では、そのように魔術登録を書き換えますね」
受付嬢の手によって、二人のギルドカードが専用の魔導具に通され、淡い光が灯る。これで、システム上、アリアとイグニスは「ひとつの運命共同体」として処理されることになった。
「登録が完了いたしました。末永くお幸せに、お二人の商売が繁盛することをお祈りしております」
笑顔で見送られ、アリアとイグニスはギルドの建物の外へと出た。
外の新鮮な空気を吸いながら、イグニスがアリアの手の中にある二枚のカードを覗き込み、低く、意地の悪い笑みを浮かべた。
「ふん。これで、人間どものシステムの上で、我とお前は『夫婦』ということになったわけだな」
アリアはフンと鼻を鳴らし、少し開き直ったように、強気な態度でイグニスを見返した。
「そうだよ。何か文句でもある? イグニスの莫大な財産、これで私も自由に使えるようになっちゃったんだけど」
「文句などあるはずがなかろう。我のものはすべてお前のものだ。……ならば、アリア。今夜は我らの『初夜』だな。どんな風に我をもてなしてくれるのだ?」
「なっ……!?」
イグニスのおちょくるような言葉に、アリアは一瞬で顔を真っ赤に染めた。冗談だとは分かっていても、美青年の姿でそんなことを言われれば、前世が男だろうがなんだろうが心臓に悪い。
アリアは、赤くなった顔を誤魔化すようにゴホンと咳払いをすると、真剣な表情を作ってイグニスを凝視した。
「おちょくらないで。……それより、イグニス。あなたに、話したいことがあるの」
「話?」
「うん。今までずっと隠していた、私の一番の秘密。すごく、大事な話」
アリアのただならぬ雰囲気に、イグニスは少しだけ目を細めた。
「ほう。我に隠し事か。ならば今すぐ聞こう」
「ダメ。ここは通りだし、人が多すぎる。誰かに聞かれている可能性があるから、ここでは話せない」
アリアが周囲を警戒するように言葉を濁すと、イグニスは「我に待てと言うか」と言いたげに、不敵に笑った。
「ならば、誰にも邪魔されない場所へ行けばいいのだろう?」
イグニスが、アリアの細い腰をぐっと引き寄せて、人通りの少ない場所へと誘導した。
「え、ちょっと――」
次の瞬間、イグニスが空いている方の手で、目の前の空間を裂くように振るった。
「――『ディメンションゲート』」
空間がぐにゃりと歪み、真っ黒な光の裂け目が現れる。イグニスはアリアを抱きかかえたまま、躊躇なくその裂け目へと足を踏み入れた。
視界が通りから、一瞬にして静寂に包まれた「純白の異空間」へと切り替わる。
そこは、物理的な法則が存在しない、イグニスの魔力だけで維持されている完全な隔離空間だった。
「ここならば、誰であっても我らの会話を盗み聞きすることはできん。さあ、話すがいい、アリア。お前の大事な秘密とやらを」
アリアは、目の前で起きたあまりにも規格外な空間転移魔法に呆気に取られながらも、「さすがは最強の龍だね」と感心せずにはいられなかった。
しかし、いざ「その時」が来ると、心臓がうるさいほどに鼓動を速め始める。
アリアは深く、深く息を吐き、きゅっと拳を握りしめた。
「……あのね、イグニス。驚かないで聞いてほしいの。……私ね、本当はこの世界の人間じゃないんだ」
「何?」
「私には、生まれる前の……『前世』の記憶があるの。別の世界で暮らしていた記憶。そこは、魔法なんて存在しなくて、もっと建物や科学が発達した世界だった。そこで私は……『男』として生きて、死んで、この世界にアリアとして転生したの」
言った。
ついに、十年間誰にも、ルインにすら明かさなかった最大の秘密を、口にした。
(どう思われるだろう……。気持ち悪いって、拒絶されたらどうしよう……。中身は元々男だったなんて知ったら、イグニスは私のことを嫌いになっちゃうかも……)
アリアの脳裏を、最悪の想像がぐるぐると駆け巡る。不安のあまり、身体が微かに震え、イグニスの顔を見上げることができずに俯いてしまう。
しかし、沈黙を破ったのは、イグニスの呆れたような笑い声だった。
「……ハハッ、なんだ。そんなことか」
「……え?」
アリアが驚いて顔を上げると、イグニスは心底つまらなさそうに肩をすくめていた。
「そんなことで、そこまで深刻な顔をしていたのか? 別の世界から魂が流れてくることなど、世界の境界が揺らげば稀にあることだ。それに、お前がいたという『異世界』とやらには少々興味があるな。魔法がない世界とは、一体どんな場所なのだ?」
「え、ええと……詳しくは、あんまり覚えてないんだよね。この世界で生きてる時間の方が長くなっちゃったし。ただ、魔法は本当になくて、男のときの記憶は朧げで……」
アリアがたどたどしく説明するのを、イグニスはふむ、と頷きながら聞いていた。そして、一歩近づき、アリアの美しい頬にそっと手を触れた。
「アリア。お前が前世で男だったかなど、我が気にすると思うか?」
「だって、男だったんだよ? 中身は――」
「今世のお前は、紛れもなくアリアという、美しい女だ。それにな……我は、お前の『性別』に惚れたわけではない。この一年間、我が領域で共に過ごし、我を恐れず、我の心を動かした、アリアという『存在そのもの』に惚れたのだ。お前が男であろうが、女であろうが、そんなことは我にとっては些事、どうでもいいことだ」
「……っ」
『惚れた』。
イグニスの口から、あまりにも真っ直ぐで、あまりにも破壊力の高い言葉が放たれた。
アリアの思考が完全にフリーズする。顔が瞬時に沸騰したように真っ赤になり、頭のてっぺんから煙が出そうなほどの熱さに包まれる。
「な、なな、何言ってるの……!」
「ふん。お前の方こそ、我に惚れているのだろう?」
イグニスが、自信に満ちた、しかしどこか愛おしそうに目を細めて、アリアの顔を覗き込んできた。
アリアは、真っ赤な顔のまま、コクコクと小さく何度も頷くしかなかった。前世がどうあれ、今、自分を最も愛し、自分が最も愛しているのは、目の前にいるこの不器用で傲慢な、愛おしい龍なのだから。
「ふ、ふん。……そうだよ。私も、イグニスのことが、大好きだよ……!」
「ハハッ、よく言った。これで、我らは名実ともに両思い、そして『番』だな」
イグニスは嬉しそうにアリアを強く抱きしめた。
「よし! ならば今夜、我は大いに楽しみにしているぞ」
「だ、だから! それはまだ早いってば! それに、あの宿屋の部屋でするなんて、絶対に嫌だからね! 声とか響いたらどうするの!」
アリアが慌てて抗議すると、イグニスはなるほど、と真面目な顔で顎を叩いた。
「宿が嫌か。一理あるな。ならば、今日のうちにこの街に『家』を買えばいいのだろう。そうすれば、誰にも邪魔されん我らの愛の巣ができる」
「えっ、家を買うって……そんな簡単に?」
「まだ外は昼過ぎだ、時間はいくらでもある。商人ギルドは、確か土地や物件の仲介も取り扱っていたはずだな。戻るぞ、アリア」
「ちょっと、待って、押しが強すぎ……!」
アリアは、相変わらず自分の常識の斜め上を突進していくイグニスに、完全に根負けしていた。しかし、その強引さが、今はたまらなく愛おしく、心地よい。
「もう……分かったよ。じゃあ、物件を見に行こう」
「あぁ、我らの新しい家を選びに行くぞ」
イグニスが再び空間を開き、二人は、元の街の通りへと戻っていった。
空に輝く昼の太陽が、新しく『夫婦』となった二人の未来を、暖かく照らし出していた。




