第6話 街
翌朝、いつも通りの心地よい朝日が差し込む。
だが、今日のアリアとイグニスにとっては、いつも通りの朝ではなかった。一年に及ぶ蜜月のような同居生活に区切りをつけ、ついに人間の世界へと足を踏み出す記念すべき日だ。
「よし、忘れ物はないね?」
アリアは旅支度を整えながら、リビングのテーブルの上に並べられた大量の食料を見つめた。
干し肉、乾燥させた果物、様々な香辛料、そしてこの一年間でアリアが作り溜めておいた様々な料理や焼き菓子。それらを、アリアとイグニスはそれぞれの「ストレージ」へと手際よく放り込んでいく。
実際のところ、半神となったアリアも、龍族であるイグニスも、すでに強大すぎる魔力を内包しているため、数ヶ月、いや数年ほど飲まず食わずであっても平気で生きていくことができる。肉体を維持するために食事をする必要は、本来ならもうないのだ。
(まあ、食べることは私の趣味だし、イグニスも私の作ったご飯が大好きだからね)
そう、イグニスはアリアの作る料理をすこぶる気に入っていた。龍本来の姿の時にはあまり食事などしなかった彼だが、アリアと同居し、彼女の手料理を口にしてからは、その魅力にすっかり取り憑かれていた。だからこそ、ストレージの中には食料が山のように詰め込まれている。これだけあれば、どこへ行っても食いっぱぐれることはない。
家の戸締りを終え、アリアはテラスの端に立つ。
今回は、一年前のようにイグニスの背に乗って移動するわけではなかった。さすがに、人里の周辺で、巨大な真紅の龍が空から舞い降りてくれば、軍隊が動くレベルの大騒ぎになってしまう。
「じゃあ、行こうか」
「あぁ。方向はあちらだ。ついてこい、アリア」
イグニスが指し示した方角を見据え、二人は同時にふわりと身体を浮かせた。
使用するのは、飛行魔法の一種である『レビテーション』。通常、人間の魔導師であれば数分維持するだけでも冷や汗をかくほどの高度な魔法だが、アリアとイグニスにとっては、呼吸をするよりも簡単に、どこまでも維持できる基礎魔法に過ぎない。
二人は音もなく空へと舞い上がり、雲の切れ間を縫うようにして、驚異的な速度で空を滑空していった。
◇
数時間の空中散歩を経て、緑豊かな大地の向こうに、巨大な石造りの城壁に囲まれた、活気あふれる街の姿が見えてきた。
「結構大きいね。……じゃあ、あの街道の手前、森の影あたりで降りようか」
あまりに街に近い場所で空から降りてくれば目立ってしまう。アリアの提案に従い、二人は街から少し離れた街道沿いの鬱蒼とした森の中へと、静かに着陸した。
「よし、ここからは徒歩で行こう」
アリアは服の乱れを整え、イグニスと並んで街道へと歩き出す。一歩一歩街へ近づくにつれ、人々のざわめきや馬車の立てる音が聞こえてくる。一年前まで、人里に対して抱いていた「怖い」という強固な疑心暗鬼は、隣を歩くイグニスのおかげで、嘘のようにすっきりと消え失せていた。
やがて、街の巨大な正門と、そこに並ぶ検問の列が見えてきた。
「次の者、前へ――って、え……?」
二人の順番になり、検問を担当していた門兵の男が、アリアたちを見た瞬間に言葉を失って硬直した。
目立つ。あまりにも目立ちすぎていた。
人間離れした完璧な造形と、怪しく煌めく金色の瞳、腰まで届く黒髪の超絶美少女アリア。
そして、燃え盛るような赤髪に、切れ長で野生的な赤金の瞳を持ち、ゆったりとした上等な服を気怠げに着崩した、王者の風格を纏う超絶美青年イグニス。
門兵だけでなく、周囲で順番を待っていた商人や旅人たちまでもが、息を呑んで二人の姿に見惚れていた。
「……あ、コホン! 失礼した。ええと、街への入場だな。身分証の提示を頼む」
ようやく正気を取り戻した門兵が、頬を赤らめ、居住まいを正して問いかけてきた。
「身分証、ですか。……すみません、お互いに持っていないんです」
アリアが申し訳なさそうに小首を傾げる。その仕草だけで、門兵の心臓が不整脈を起こしそうに跳ね上がった。
「そ、そうか、身分証なしか。ならば、入場の登録手数料として、一人あたり銀貨5枚の支払いが必要となる。二人で合計、銀貨10枚だ」
「銀貨10枚、ですね。分かりました、ええと――」
隣に立つイグニスが、懐から何かを取り出すような自然な仕草で、一瞬だけ『ストレージ』を発動させた。
そして、彼の長い指先に挟まれた一枚の硬貨が、門兵の前に差し出された。
「これで足りるか」
それは、鈍い黄金の輝きを放つ、まばゆい『金貨』だった。
「き、金貨……っ!? あ、足ります、足りるどころかお釣りが――」
「釣りはいらん。取っておけ」
「は、はいぃっ! ありがとうございます、旦那様!」
門兵はこれまでにないほどの満面の笑みを浮かべ、へこへこと何度も頭を下げながら、その金貨を素早く自分の制服の胸元へと滑り込ませた。
アリアは、門兵の態度を見守りつつ、尋ねた。
「あの、この街で一番おすすめの、綺麗で設備が良い宿屋を教えていただけますか?」
「それでしたら! この正門から大通りを真っ直ぐ進んでいただきますと、中央に大きな噴水広場が見えてまいります。そこをさらに真っ直ぐ進んだ先にある『黄金の翼亭』が、一押しでございます! 朝食と夕食付きで、なんと各部屋に『個別のバスタブ』が付いておりましてな。通常の宿より料金は高めですが、それ以上の素晴らしい満足感を提供してくれる極上の場所でございますよ!」
「なるほど、お風呂付きですか。それは素敵ですね。教えてくれてありがとうございました」
アリアが丁寧にお礼を言い、二人はようやく検問を抜けて街の中へと足を踏み入れた。
一歩入ったところで、アリアは隣を歩くイグニスをじとーっとした目で見上げた。
「……ねえ、イグニス。さっきの金貨、いくらなんでも気前が良すぎじゃない?」
「何がだ?」
「何がだ、じゃなくて。この世界のお金の価値、私も一応本で読んだから知ってるんだよ? 金貨1枚は、銀貨100枚分でしょ。入場料は銀貨10枚。つまり、本来の料金の『10倍』をポーンと渡しちゃったんだよ。あの門兵さん、完全にホクホクだったじゃない」
アリアが少し呆れ顔で言うと、イグニスは気にする様子もなくフッと鼻で笑った。
「くだらん。銀貨10枚だろうが金貨1枚だろうが、我にとっては道端に転がっている小石の数の違いでしかない。ストレージに山ほどあるのだ、一々細かい計算など面倒なだけだ」
「まあ、そうなんだけどね……。あのお金、全部イグニスのだし。でも、これからはもう少し金銭感覚を人間に合わせた方がいいかもよ?」
そんな会話を交わしながら大通りを進むが、すれ違う人々が例外なく二人を振り返り、立ち止まって見つめてくる。さすがにこのままでは、宿に着く前に人だかりができてしまいそうだ。
「……イグニス、やっぱりこれ、目立ちすぎだよ。あれ、使おう」
「あぁ、そうだな。視線が鬱陶しくて敵わん」
二人は歩きながら、周囲の影に溶け込むように極小の魔力を放った。
使用したのは、認識阻害魔法の一種である『オブスキュア』。姿そのものを消す透明化とは異なり、「そこに人はいるが、顔や特徴が印象に残らず、意識から外れてしまう」という、隠蔽魔法だ。
魔法が発動した瞬間、周囲の人々の視線がすうっと二人から外れ、何事もなかったかのように通り過ぎていくようになった。
「よし、これで一安心」
二人はそのまま大通りを進み、噴水広場を抜けて、門兵に教えられた宿屋『黄金の翼亭』へと到着した。さすがに高い料金を設定しているだけあって、外観からして上品で、落ち着いた雰囲気が漂っている。
アリアはフロントの受付へと向かい、給仕の女性に話しかけた。
「すみません、二人部屋を三泊分、お願いしたいのですが」
「はい、かしこまりました。二人部屋を三泊ですね。お食事は朝食と夕食が付き、各お部屋にバスタブがございます。料金は前払いで、合計『金貨1枚』となりますが、よろしいでしょうか?」
(やっぱり高いな。でも、お風呂付きだし三泊なら妥当か……)
アリアが納得していると、イグニスが再び懐から金貨を1枚取り出し、カウンターへと滑らせた。
「これで頼む」
「はい、確かに金貨1枚、頂戴いたします。では、お部屋までご案内いたしますね」
従業員の一人に案内され、二人は3階の角部屋へと向かった。
鍵を開けて部屋に入ると、そこは非常に清潔で、広々とした美しいツインの部屋だった。奥の扉を開ければ、門兵の言葉通り、木製の立派なバスタブが備え付けられた浴室がある。
従業員が礼儀正しく一礼して去り、部屋の扉が閉まると同時に、アリアとイグニスは身に纏っていた魔法を解除した。
ふぅ、と息を吐きながら、アリアはふかふかのベッドに腰を下ろす。
「良い部屋だね、イグニス。お風呂もあるし、森の家と同じくらい快適そう」
「ふん、まあまあだな。ベッドの質は、我が作ったものの方が上だが」
イグニスは室内の調度品を品定めするように眺め、それからアリアの正面の椅子に腰掛けた。
「それで、アリア。街に着いたが、これからの予定はどうするのだ? いつまでも宿暮らしというわけにもいかんだろう」
「そうだね。一番最初に必要なのは、お互いの『身分証』だよ。人間の世界でちゃんとした生活を送るには、自分の素性を証明するものがないと、色々と不便だからね」
アリアは、顎に手を当てて前世の知識とこの世界の常識をすり合わせる。
「一番手っ取り早いのは、ギルドに登録して、そのギルドカードを身分証代わりにすることかな。候補としては、荒事全般を扱う『冒険者ギルド』か、商業取引を扱う『商人ギルド』の二つがあるんだけど……」
「どちらにするのだ?」
「私は、『商人ギルド』に登録するのが一番楽そうだな、って思ってる」
「ほう? 冒険者ではないのか。我等なら、冒険者になればすぐにでも名を馳せられると思うが」
イグニスが意外そうに眉を上げる。それに対し、アリアは苦笑いを浮かべて首を振った。
「そこが罠なんだよ。冒険者ギルドは実力主義だから、確かに私やイグニスの実力なら、あっという間にランクが上がると思う。でもね、ギルドランクが一定以上――例えばAランクとかになると、今度は国や貴族から目をつけられて、依頼という名の『強制任務』で縛られやすくなっちゃうんだよ。私はもう、誰かに命令されて動く生活なんて、絶対に御免被りたいの」
アリアの言葉には、十年の被実験者生活から来る、強い自由への執着があった。
「その点、商人ギルドなら、適当にストレージに眠ってる素材をたまに売るだけで、商人としての実績は維持できるし、国から無理やり戦闘に駆り出されるリスクも低い。たまにちょっとした商売をしながら、のんびり暮らすのが一番安全で楽だと思うんだよね」
「なるほど、合理的な判断だな。お前がそう言うなら、私も商人ギルドとやらに付き合ってやろう。我のストレージにも、換金できそうなガラクタは山ほど入っているからな」
イグニスが頷いた。龍の集めた「ガラクタ」が、人間にとってのどれほどの超一級国宝級の財宝であるかは、あえて突っ込まないのがアリアの優しさだった。
「よし、方針は決まり。……でも、今日はもう夕方だし、移動で少し疲れたから、ギルドに行くのは明日にしよっか」
「あぁ、そのつもりだった。旅の初日から動き回る必要もない」
イグニスは立ち上がると、アリアをじっと見下ろし、口元をいたずらっぽく歪めた。
「ならばアリア、先に風呂に入ってくればどうだ? それとも……我と一緒に、風呂に入るか?」
「入るわけないでしょ! 却下、大却下です!」
アリアは、顔を真っ赤にして即座に拒絶の声を上げた。
森の家で暮らしていた一年の間にも、お風呂に入るタイミングで、イグニスには度々「一緒に入るか?」と誘われていた。その都度、アリアは全力で断り続けていたのだ。
しかし、実際のところ、アリアは彼と一緒にお風呂に入ることに対して、心底「嫌悪」を抱いているわけではなかった。前世が男だったこともあるし、何よりこの一年間で、彼女にとってイグニスはそれほどまでに身近で、信頼できる特別な存在になっていたからだ。
だが、やはり妙齢の女性としての理性や羞恥心が、どうしても「はい、一緒に入りましょう」と素直に頷くことを拒ませてしまう。
イグニスはおそらく、そんなアリアの複雑な乙女(?)心をすべて見透かしているのだろう。彼は無理やりアリアを連れ込もうとはせず、アリア自身が恥ずかしがらずに、自分から「一緒にいいよ」と折れる日を、楽しそうに待っているフシがあった。その余裕たっぷりな態度が、アリアとしては実に悔しくてたまらないのだ。
「もう! 私は先に入りますからね! イグニスはここで大人しく待ってて!」
アリアは真っ赤になった顔を隠すようにプイッと後ろを向くと、着替え用の服を抱えて、足早に浴室へと駆け込んでいった。
背後から、イグニスの愉しげな、低く心地よい笑い声が聞こえてくるのを耳にしながら。
こうして、人間の世界での新しい生活の第一歩は、いつも通りの、少し騒がしくも温かいやり取りと共に、穏やかに始まっていくのだった。




