第3話 乱入者
『ハナヨメェ……オレノォ……ハナヨメェェ……ァ、ァ……ッ!!』
鼻を突く強烈な腐臭を放ちながら、ドロドロのヘドロの化け物がアリアの足元へと肉薄する。不揃いな無数の眼球が歓喜に歪み、紫黒色の不気味な触手が、アリアの滑らかな白い太ももへと、じゅるりと音を立てて伸び上がった。
首輪の呪縛のせいで一歩も動けない。指先ひとつ動かせない。
(嘘でしょ……! 十年間も地獄の激痛に耐えて、生き残った結末がこれ!? こんなヘドロの化け物に貞操を奪われて、ドロドロに溶かされるなんて、冗談じゃない……ッ!!)
アリアの脳内は、恐怖と、前世の男としてのプライドが混ざり合った、凄まじい絶望の悲鳴で満たされていた。
触手の先端が、アリアの肌に触れる――まさにその刹那だった。
ドガァァァァァァァァンッ!!!!
突然、天から世界がひっくり返るような、凄まじい大音響が轟いた。
実験室の頑丈な天井――何重もの防御結界と、数十メートルの岩盤に守られていたはずの地下施設の天井が、まるで薄い紙細工のように一瞬で突き破られたのだ。
爆風と、激しい土煙が、一瞬にして部屋全体を覆い尽くす。
「な、何事……っ!?」
あまりの衝撃波に、首輪の呪縛で硬直していたアリアの身体すらも、わずかにその振動で揺れた。
もうもうと立ち込める砂煙の向こう側から、圧倒的な、文字通り『規格外』の圧迫感が室内に流れ込んでくる。それは、先ほど召喚された邪神のドロドロとした陰湿な気配とは根本的に異なる、太陽のように苛烈で、世界を平伏させるほどの、神聖にして絶対的な「暴力」の気配だった。
砂煙がゆっくりと晴れていく。
そこに現れた「それ」の姿を目にした瞬間、アリアは呼吸をすることすら忘れ、ただただ圧倒されて言葉を失った。
天井を大きく踏み抜いて姿を現したのは、山ほどもある巨大な、真紅の巨躯。
鋼鉄よりも遥かに硬質で、燃え盛る業火のような輝きを放つ深紅の鱗に覆われた、一頭の巨大な『龍』だった。
背中には天を覆わんばかりの巨大な翼があり、頭部からは漆黒の禍々しい角が二本、天に向かって伸びている。その燃え盛る太陽のような真紅の双眸は、理性を持ち、すべてを見下ろす圧倒的な覇気に満ちていた。
ただそこに存在するだけで、周囲の空間の温度が急激に上昇し、大気がビリビリと悲鳴を上げている。神話の時代からそのまま抜け出してきたかのような、あまりにも荘厳で、美しい最強の生物。
赤龍は、室内の状況をその大きな双眸で、億劫そうに見下ろした。
そして、アリアの足元で蠢くヘドロの化け物――邪神へと視線を留める。
「……ふん。近くで神の気配がしたと思って来てみれば……。なんだ、ただの『出来損ない』か」
赤龍が、フッと鼻で笑った。
その声は、地響きのように重く、しかし理知的で、実験室全体を物理的に震わせるほどの音圧を持っていた。
その侮蔑の言葉を、邪神のヘドロが聞き逃すはずがなかった。
理性のほとんどない邪神だが、目の前の巨大な存在が自分を格下としてあざ笑ったことだけは、本能的に理解したのだろう。無数の眼球が真っ赤に血走り、体表の口が一斉に裂けるように開いた。
『オ、オレェ……ワラウナァァァァッ!!!』
『オレ、カミィ! オレ、エライィィィ! ワラウナァァァ、ァ、ァッ!!!』
激昂した邪神の身体が、一気に数倍の大きさに膨れ上がる。ドロドロの流動体だった肉体が、鋭い棘のような形を変え、天を突く赤龍の巨躯へと向かって、津波のように一斉に襲いかかった。
空間そのものを腐食させる、暗黒の魔力の奔流。
しかし、赤龍はその猛攻を前にしても、眉ひとつ動かさなかった。ただ、鬱陶しそうに目を細める。
「――五月蝿い」
赤龍が静かに、短く呟いた。
次の瞬間、赤龍の巨大な顎が開き、その奥から、すべてを灰燼に帰す真紅のブレスが放たれた。
轟ォォォォォォォォォォォッ!!!!!
それは、ただの炎ではなかった。極限まで圧縮された熱量の質量兵器だ。
アリアの視界が、一瞬で真っ白な光に染まる。
邪神が放った暗黒の魔力も、そのドロドロとした肉体も、赤龍の放った神聖な業火の前には、抵抗する余地すら与えられなかった。一瞬にして蒸発し、細胞のひとかけら、概念のひとしずくすら残さず、完全に消滅していく。
ブレスの勢いはそれだけに留まらない。
邪神を焼き尽くした炎は、そのまま背後にあった超重厚な魔導隔壁を紙のように溶かし、その奥にあった研究施設全体、そして、先ほどアリアを置いて逃げ出した院長や研究員、衛兵たちがいるであろうエリアごと、一瞬で跡形もなく破壊し、焼き尽くしていった。
(わあああああああああちょっと待って待って待って!!! ピエン!!! マジでピエンなんだけどこれ!!!!!)
アリアは心の底から絶叫していた。もちろん、身体は動かないので、心の中での大絶叫である。
邪神が消え去ったのはぶっちゃけ最高にハッピーだが、目の前の赤い龍の攻撃スケールがデカすぎて、自分まで巻き添えを食らって消し炭になる未来しか見えない。直撃は免れているものの、周囲の空気は数千度にも達しているのではないかというほどの超高熱だ。半神の肉体になっていなければ、今の一撃の余波だけで、間違いなく肉体が蒸発して死んでいただろう。
「神様仏様赤龍様、どうか私にブレスを向けないでくださいお願いします……!」と、アリアは涙目(動けないので涙すら流せないが)で、心の中で必死に祈りを捧げていた。
やがて、凄まじい光と熱が収まる。
あとに残されたのは、完全に崩壊し、赤黒くドロドロに溶けた岩盤だけの、広大なクレーターのような空間だった。天井は完全に消え失せ、遥か上空には、どんよりとした本物の夜空が広がっている。
あれほど強固だった研究施設も、不快な邪神も、クズな研究員たちも、文字通り「塵一つ残さず」消滅していた。
その時だった。
パキン……ッ。
静寂に包まれた空間に、小さな硬質な音が響いた。
アリアの首に十年間、強固に嵌められていた『隷属の首輪』に、みるみるうちに亀裂が走っていく。そして、そのまま粉々に砕け散り、地面へと崩れ落ちた。
「え……?」
アリアは、思わず自分の首元に手を当てた。
動く。指が動く。首が回る。足が動く。十年間、自分を縛り続けていた、あの忌々しい呪縛が、完全に消え去っていた。
どうやら、登録されていた術者が、先ほどの赤龍のブレスで「完全に、一人残らず瞬殺」されたため、首輪の契約そのものが強制解除されたらしい。
「あ、動ける……。助かった、のかな……?」
アリアは、完全に自由になった自分の両手を、呆然と見つめた。
だが、安心している暇はなかった。
ズシン、と巨大な地響きが鳴る。
赤龍が、その巨大な頭部を、地面に佇むアリアのすぐ目の前まで下げてきたのだ。家一軒分ほどもある巨大な顔、燃え盛るような眼球が、じっとアリアを見つめている。
アリアは思わず息を呑み、身体を硬直させた。首輪は外れたが、この怪物がその気になれば、自分なんて前足の爪一枚でミンチにされる。
赤龍は、アリアの全身を満たす、人間離れした濃密な気配――『神の血』の気配を敏感に察知したようだった。その顔に、明確な疑問の色が浮かぶ。
「……女。お前は、何者だ?」
赤龍が、低く、しかしどこか不思議そうに問いかけてきた。
人間の言葉を完璧に解し、発音している。その声には先ほどのような敵意はなく、純粋な好奇心が混ざっているように聞こえた。
何者だ、と問われても、アリア自身、現状をどう説明していいか分からなかった。
元々は前世で男の日本人で、転生して孤児院で育ち、誘拐されて十年間注射を打たれ続けたら、なぜか髪は黒いまま目が金色の、人間を辞めた「半神」になってしまいました――なんて、初対面の龍に説明して理解してもらえるはずがない。
アリアは小首を傾げ、困ったような、しかし端正な顔立ちを少し歪めて、正直な感想を口にした。
「……なんなんでしょう? 自分でも、よく分かってないんですよね」
お互いの間に、無言の時間が流れる。
アリアは「はてな?」という表情で赤龍を見上げ、赤龍もまた「はてな?」とでも言いたげに、大きな目をパチクリとさせた。まさか、そんな気の抜けた返事をするとは思っていなかったのだろう。
「ふん、妙な奴だ。まあいい、出来損ないの神も消えた。我の用は済んだ」
赤龍は関心を失ったように鼻を鳴らすと、巨大な翼を広げ、その場から飛び立とうとした。凄まじい風圧が巻き起こり、アリアの長い黒髪が激しくなびく。
「あ、待って! 待ってください!」
アリアは、思わず大声を上げて赤龍を引き止めた。
自由になった身体。壊滅した施設。それはいい。最高だ。しかし、周囲を見渡せば、ここは地下深くの、完全に破壊された未知の空間。天井が抜けたとはいえ、ここがどこなのか、王都からどれくらい離れているのか、アリアには全く見当がつかなかった。十年間も監禁されていたのだ、外の地理など分かるはずもない。
このままここに一人で取り残されれば、飢え死にするか、あるいは別の魔物に襲われるか、最悪の場合、この施設の生き残りの関係者に再び捕まる可能性だってある。
それなら、圧倒的な強さを持ち、少なくとも話が通じるこの赤龍に縋る方が、生存確率は遥かに高い。前世の男としての冷静な計算と、現世の少女としての直感が、そう告げていた。
「なんだ? まだ我に何か用か、小娘」
赤龍が動きを止め、不機嫌そうに振り返る。
「あの……私、十年間ずっとここに閉じ込められていたので、ここがどこなのか、外の世界がどうなっているのか、全く分からないんです。行く当てもありません。だから……お願いです、私をここから連れ出して、一緒に行動させてくれませんか!?」
アリアは、その美しい金色の双眸で、真っ直ぐに赤龍を見つめた。
その瞳には、十年の地獄を生き抜いた強固な意志と、同時に、一人の少女としての切実な願いが宿っていた。
赤龍は、アリアの言葉を聞き、再び彼女の姿をじっくりと観察した。
神の血を完全にその身に適応させ、人間でありながら神の領域に足を踏み入れつつある、奇妙な娘。その容姿は、世界の誰よりも美しいが、まとう雰囲気はどこか図太く、冷徹だ。
「……面白い小娘だ。我の前に立ち、怯えもせず、同行を求めるとはな」
赤龍の口元が、ニィと裂けるように歪んだ。それは、彼なりの笑みのようだった。アリアの肝の据わった態度に、ほんの少しだけ興味を持ったらしい。
「よかろう。退屈しのぎだ、我の背に乗るがいい。ただし、振り落とされて死んでも知らんぞ」
赤龍がその巨躯を低くし、長い首を地面へと近づけた。
「ありがとうございます!」
アリアは安堵の息を漏らすと、衣服の汚れも気にせず、赤龍の強固な首元へと近づいた。間近で見る鱗は、まるで磨き上げられたルビーのように美しく、そしてほんのりと温かい。
アリアはスカートの裾を気にしながらも、半神としての身体能力を活かし、しなやかな動きで赤龍の太い首をよじ登り、その巨大な背中の中央、翼の付け根のあたりへと辿り着いた。
「しっかり捕まっておけよ」
「はい!」
アリアが龍の硬い鱗の隙間に指をかけ、身体を低くしてしっかりと密着させる。
「行くぞ――!」
赤龍が短く吠えると、同時に、その巨大な一対の翼が力強く羽ばたかれた。
ドンッ!!!
爆音と共に、大地が遥か下へと遠ざかっていく。
凄まじい重力《G》がアリアの身体に襲いかかったが、彼女は歯を食いしばり、必死に鱗にしがみついた。
実験室の残骸を突き抜け、二人は一気に、夜の空へと飛び上がった。
「わあ……っ!!」
強烈な夜風がアリアの全身を叩く。激しい風の音で耳が痛いほどだが、アリアは目を開け、眼下に広がる景色を見下ろした。
そこには、遮るもののない、広大な世界が広がっていた。遠くに見えるのは、微かに光る王都の街並みだろうか。十年間、灰色の石壁しか見られなかったアリアにとって、その夜景は、涙が出るほどに広大で、自由そのものだった。
赤龍は速度を上げ、雲を突き抜け、さらに上空へと昇っていく。
月光に照らされた赤龍の背中で、アリアの長い黒髪が夜空に美しく舞う。
(私は生き延びた。あの地獄から、ついに抜け出したんだ……!)
胸の奥から湧き上がる、圧倒的な解放感。
これからどこへ向かうのか、この龍が自分をどこへ連れて行くのかは分からない。龍の「巣」がどれほど危険な場所かも未知数だ。
しかし、アリアの心に恐怖はなかった。十年の地獄を乗り越えた彼女にとって、これからの未来は、どんな場所であろうとも、自分の足で歩む「自由」の舞台でしかなかった。
赤龍は大きな翼をゆったりと動かし、満月の光を浴びながら、遥か彼方の山脈に佇むという自らの巣へと向かって、悠然と空を駆け抜けていった。




