第2話 絶体絶命
意識が浮上する瞬間、最初に感じたのは、尋常ではない冷気と、鼻を突く強烈な薬品の匂いだった。
身体を動かそうとして、カチリ、と硬質な金属音が響く。
(……ここは、どこ……?)
アリアは重い瞼を開いた。視界に入ってきたのは、灰色一色の無機質な石壁と、天井に埋め込まれた淡く光る魔導灯。どうやら地下に作られた大規模な施設のようだ。
自分の身体を見下ろすと、着ていた服は剥ぎ取られ、代わりに薄汚れた白い囚人服のようなものを纏わされていた。そして、首元に妙な違和感がある。触れてみると、そこには肌にぴったりと密着した黒い金属製の首輪が嵌められていた。
「無駄だよ。それは『隷属の首輪』。私たちがどれだけ逆らおうとしても、命令一つで身体が動かなくなるマジックアイテムだから」
掠れた、覇気のない少女の声が聞こえた。
アリアが声のした方に視線を巡らせると、そこは頑丈な鉄格子で仕切られた巨大な大部屋だった。驚いたことに、そこにはアリアと同じくらい――およそ八歳前後の少女たちが、数十人も押し込められていた。皆、虚ろな目をして、膝を抱えて震えている。
「おい、新入り。お前の番号はこれだ。ここでは名前など意味を持たない。よく覚えておくんだな」
通路を歩いてきた白衣の男――研究員が、鉄格子の隙間から一枚の金属プレートを投げ込んできた。そこには、歪んだ文字で『No.333』と刻まれていた。
それが、アリアの新しい名前になった。
この施設で行われているのは、おぞましい「人間実験」だった。
数日後、アリアは初めて実験室へと連行された。中央の台座に四肢を拘束され、冷酷な目を連中が見下ろしてくる。
「これより、第百三十二回『神の血』適合実験を開始する。検体番号No.333」
研究員の手には、禍々しい紫色の液体で満たされた巨大な注射器が握られていた。『神の血』と呼ばれるその液体が、躊躇いなくアリアの腕の静脈へと注入される。
「――あ、あが、あああああああッ!!!?」
その瞬間、アリアの脳内を、前世の記憶すら吹き飛ぶほどの激痛が襲った。
血管に直接、煮えたぎる溶岩を流し込まれたかのような灼熱。細胞の一つ一つが強制的に書き換えられ、内側から引き裂かれるような感覚。
同じ部屋にいた他の少女は、この一回目の投与で肉体が耐えきれず、風船のように膨らんで爆発四散した。壁や床に飛び散る肉片と血飛沫。それが、この施設における「日常」だった。
(死ぬ……死ぬ、死にたくない……っ! 私は、まだ……っ!)
アリアは歯が砕けんばかりに噛み締め、血を吐きながらも、前世から引き継いだ強靭な精神力だけで意識の糸を繋ぎ止めた。奇跡的にも、アリアの一回目は「適合」ではなく、ただの「生存」という形で終わった。
しかし、それは地獄の門が開いたに過ぎなかった。
二回目、三回目と、実験は容赦なく繰り返される。
回数を重ねるごとに、周囲の少女たちは確実に減っていった。ある者は数回の投与で肉体がドロドロのヘドロのように溶け落ち、またある者は精神が完全に崩壊して獣のように狂い狂死し、またある者は目や耳、毛穴というあらゆる穴から一斉に血を吹き出して絶命した。
何回も投与されて生き残る確率など、現在の研究データでは「0%」。
そんな非道が行われる理由は、ただ一つ。
この世界の深淵に眠る『邪神』が、自らの眷属であり伴侶となる「花嫁」を求めたからだ。
だが、通常の人間では邪神の強大すぎる神力に近づくだけで、精神が汚染され、肉体が崩壊して死んでしまう。だからこそ、神の力への耐性をつけるために、人間の子供に『神の血』を繰り返し投与し、強制的に肉体を神へと近づける実験が行われていたのだ。
二度目の投与でも、アリアは血反吐を吐きながら生き残った。
三度目、四度目……。
奇妙なことに、十数回目を数える頃から、アリアの身体に変化が起き始めた。投与された直後のあの狂気的な苦痛が、だんだんと薄れていったのだ。肉体が神の血を完全に受け入れ、融合し始めていた。
◇
そして、地獄のような日々が始まってから、十年の歳月が流れた。
かつて八歳だった少女は、十八歳という輝かしい年齢を迎えていた。
現在、あの広大な大部屋に囚われているのは、アリアただ一人だけ。他の数百人に及ぶ少女たちは、誰一人として生き残れなかった。アリアだけが、人間から『半神』とも呼べる領域へと到達した唯一の成功例となったのだ。
十年という歳月と、体内の神の血は、アリアの容姿を爆発的に変化させていた。
艶やかな黒髪はそのままに、腰のあたりまで美しく伸びている。しかし、その顔立ちの変貌ぶりは、見る者すべての息を呑ませるほどに凄まじいものだった。
人間としての限界を超えた、あまりにも完璧な造形。陶器のように滑らかで、わずかな濁りもない白い肌。憂いを帯びた切れ長の目元に、すっと通った鼻梁、そして薄紅色の唇。それは「将来美人になる」という過去の予想を遥かに超越した、神話の中から抜け出してきた女神のような、暴力的なまでの美貌だった。
そして最も大きな変化は、その双眸。夜の闇のようだった黒い瞳は、度重なる神の血の適合により、神秘的で、底深い輝きを放つ「金色」へと染まっていった。
鉄格子の外を通る研究員たちは、アリアの前を通り過ぎるたび、必ずと言っていいほど足を止め、下卑た、しかし恐怖の混じった視線を彼女に注いでいた。
「おい、見ろよ……No.333だ。信じられん、本当にあの実験に完全適合して生き残る個体がいるとはな……」
「信じられないのはその美貌だよ。おい、あんな極上の女、見たことがあるか? 王都のどんな高級娼婦も、いや、王族の姫君ですら足元にも及ばんぞ」
「ああ……もしあいつが『邪神様の花嫁候補』でなければ、実験の合間にでも、俺の手で組み敷いて、隅々まで自分のものにしていたものを……!」
「馬鹿言え、滅多なことを言うな。衣服の上から眺めるだけで我慢しておけ。邪神様に捧げる供物に傷でもつけたら、俺たちは全員、生きたまま皮を剥がれるぞ」
研究員たちがごくりと唾を飲み込み、制服のズボンの上から自身の欲情を抑え込むようにして去っていく。
アリアは鉄格子の奥の寝台に腰掛け、冷ややかな視線で彼らの背中を見送っていた。前世が男であるアリアにとって、男たちのそんな下劣な欲望の視線は、反吐が出るほどに不快でしかなかったが、同時に「邪神の花嫁」という肩書きのおかげで、この十年もの間、誰一人として自分の身体に触れることができなかったのは幸運だったと言える。
(……ルインは、どうしているかな)
アリアは、自らの金色の瞳をそっと手で覆った。
十年前のあの夜、自分を囮にして逃がした、金髪金眼の少年。彼は無事にあの包囲を抜け出せただろうか。今もどこかで生きているのだろうか。この地獄のような施設の中で、アリアの心の支えになっていたのは、皮肉にも、かつて自分が少し年の離れた弟のように思っていた、あの少年の存在だけだった。
しかし、そんな退屈で、しかし平穏(?)な監禁生活も、唐突に終わりを告げる。
その日の午前、実験室にはいつになく多くの人間が集まっていた。最高責任者である老研究員を筆頭に、武装した衛兵たち、そして神殿の術者と思わしき、禍々しい法衣を纏った男たち。
アリアは中央の祭壇へと連れ出され、強固な魔導の鎖で四肢を固定されていた。
「ついに、この時が来た。十年の研究と、数千人の尊い犠牲が、結実する時が!」
老研究員が狂信的な笑みを浮かべ、両手を天に掲げた。
「半神の肉体を得たNo.333よ、お前は本日、めでたく『邪神様の花嫁』となる。これから、我らが主、偉大なる邪神様をこの現世へと召喚する!」
術者たちが一斉に、聞いたこともない不快な言語で呪詛のような詠唱を始め、床に描かれた巨大な魔法陣が、赤黒い、不吉な光を放ち始めた。
空間が、メリメリと音を立てて歪んでいく。
空気そのものが腐敗していくかのような、凄まじい悪臭と圧迫感が実験室を満たした。普通の人間なら、この場にいるだけで正気を失うほどの神威。しかし、半神となったアリアの肉体は、その不快感に完全に耐えていた。
魔法陣の中央から、湧き出すように「それ」が現れた。
現れた邪神の姿は、アリアが想像していたような、威厳のある悪魔のような姿では決してなかった。
それは、泥。あるいは、ドロドロのぐちゃぐちゃに腐り果てた、底なし沼のヘドロのような物質の塊だった。紫と黒が混ざり合った悍ましい流動体であり、表面には無数の不揃いな眼球や、歪んだ口のようなものが浮かんでは消え、消えては浮かんでいる。
そこには、知性や理性といった高等なものは微塵も感じられない。ただ純粋な、原初的な欲望と悪意の塊だった。
「おお……おおお! 我が主よ! さあ、こちらが貴方様のために用意した、至高の花嫁でございます!」
老研究員が這いつくばって叫ぶ。
ヘドロの塊が、じゅるり、と音を立ててアリアの方へと向き直った。
無数の眼球が一斉にアリアの全身を凝視する。その瞬間、邪神の体表にある「口」が歪に開き、耳障りな、地を這うような声を響かせた。文法は完全に崩壊しており、同じ幼児のような言葉を何度も繰り返し、生理的な嫌悪感を抱かせる発音だった。
『ハ、ナ、ヨ、メ……ミツケタァ……。オレノォ……ハナヨメェ……ア、ァ……』
『ウ、ウツクシィ……ァ、ァ、ハナヨメェ……ク、クレェ……ッ!!』
(うわ……、最悪。マジで生理的に無理なんだけど……!)
アリアは本能的な恐怖と、それ以上の凄まじい嫌悪感に鳥肌を立てた。
前世が男だとか、現世が女だとか、そんな次元の話ではない。あんなドロドロのヘドロの化け物に抱かれ、その一部にされるなど、考えるだけで精神が崩壊しそうだった。
拘束の鎖は、邪神の放つ魔力によってすでに腐食し、ボロボロと崩れ落ちている。今なら動ける。
アリアは即座に祭壇から飛び降り、実験室の出口へと向かって走り出そうとした。
しかし。
「――待て。動くな、No.333」
背後から、老研究員の冷酷な声が響いた。
その瞬間、アリアの首に嵌められていた『隷属の首輪』が、激しい電撃のような魔力を放ち、アリアの全身の神経を完全に掌握した。
「くっ……あ、あ……っ!?」
一歩を踏み出そうとした足が、まるで地面に縫い付けられたかのようにピタリと止まる。指一本、髪の毛一筋すら、自分の意志で動かすことができない。首輪を通じて、強制的に身体の自由を奪われたのだ。
「無駄だと言ったろう。その首輪がある限り、お前は我々の命令を拒めない。さあ、大人しく邪神様を受け入れるのだ」
老研究員は満足げに頷くと、周囲の術者や衛兵たちに手招きをした。
「よし、召喚は成功だ。あとは二人きりでごゆっくり、愛を育んでいただこう。我々は邪魔者だ、退散するぞ」
「おい、待て! 置いていくな! これを外せ!!」
アリアは声だけは辛うじて出すことができたが、男たちはクスクスと嘲笑いながら、頑丈な魔導隔壁の扉の向こうへと全員退避していってしまった。
実験室に残されたのは、身動きの取れないアリアと、歓喜に震えて蠢く邪神のヘドロだけ。
『ハナヨメェ……ァ、ァ……オレノ、モノォ……。イマァ、イクカラァ……ッ!!』
じゅるり、じゅるりと、肉の焦げるような音を立てながら、ヘドロの化け物がアリアの足元へと這い寄ってくる。その悍ましい触手が、アリアの白い脚に触れようと、ゆっくりと持ち上がった。
(嫌、嫌嫌嫌! 来ないで! 触らないでよ!!)
身体は動かない。首輪の呪縛のせいで、拒絶の悲鳴を上げることも、目を閉じることすら許されない。
まさに、貞操の危機。
これまでの十年の地獄を生き抜いたアリアが、人生で最も激しい絶望と恐怖に、目の前が真っ暗になりかけた、その瞬間だった――。




