第1話 異世界
前世の記憶というのは、往々にして人生のノイズにしかならない。
それが「男から女への転生」なんていう、どこかの創作物のような突飛なものであれば尚更だ。
(……まあ、文句を言ったところで、この身体が元に戻るわけでもないんだけど)
アリアは、冷たい井戸水に浸した雑巾を絞りながら、小さく息を吐いた。
水面に映る自分の顔を見る。
艶のある黒髪に、夜の闇を溶かし込んだような黒い瞳。まだ幼さが残る八歳ほどの容姿だが、顔立ちの輪郭やパーツの配置は、素人目に見ても「将来は間違いなく絶世の美人になる」と予感させるに十分な形整い方をもっていた。
前世は、どこにでもいる平凡な男だった。それが死後、気づけば見知らぬ世界の、見知らぬ赤ん坊になっていた。しかも性別が変わっているというおまけ付きだ。
現在、アリアが身を寄せているのは、王都の端にあるうらぶれた孤児院である。
国からの支援が乏しいのか、それとも別の理由があるのか、常に薄暗く、どこか饐えた匂いが漂う場所だった。
ここでアリアは、周囲と深く交わることなく過ごしてきた。いじめられているわけではないが、かといって特別に仲が良い友人がいるわけでもない。前世の精神年齢があるせいで、子供特有の騒がしさに馴染めなかったというのもある。つかず離れず、波風を立てない。それがアリアの処世術だった。
そんなアリアの静かな日常に、小さな変化が訪れたのは数ヶ月前のことだ。
「今日から新しく入る、ルインだ。みんな、仲良くするように」
院長に連れられてやってきたその少年は、一目でこの薄汚れた孤児院には不釣り合いだと分かった。
輝くような金髪に、鋭さとどこか憂いを帯びた金色の瞳。泥に塗れても隠しきれない高貴さと、同時に酷く怯えたような、世界を拒絶するような雰囲気を纏っていた。
孤児院の部屋は二人部屋が基本で、空きがあったアリアの部屋に、ルインが割り当てられることになった。
「……アリアよ。よろしく、ルイン」
「……うん。よろしく」
最初の会話はそれだけだった。
ルインは最初、誰に対しても心を閉ざしていた。食事の時も部屋の隅で縮こまり、他の子供たちが話しかけても無視を貫いていた。だが、アリアだけは違った。前世が男であるアリアにとって、子供の扱いは得意ではないものの、相手が何を嫌がるかは何となく察しがついた。過度に干渉せず、かといって無視もせず、ただ同じ部屋の住人として「そこにいる」ことを許容した。
「ルイン、スープ冷めるよ。早く食べな」
「……君は、僕が怖くないの?」
「何が? その綺麗な髪? それとも目? ただの色じゃん」
そんな淡々とした態度が、かえってルインの心を解きほぐしたのだろう。気づけば、ルインはアリアの後ろを付いて回るようになっていた。
「アリア、今日の掃除、僕が君の分もやるよ」
「いいよ、自分の分くらい自分でやる」
「でも、アリアの手が荒れたら嫌だ」
「……何言ってんの、君」
ルインの視線は、いつしか明確な好意の色を帯び始めていた。アリアとしては、少し年の離れた弟か、ちょっと懐っこい友人程度の認識なのだが、ルインの熱烈な態度は日々増していくばかりだった。
そんなある日の午後。
孤児院の中で、ある噂が囁かれ始めた。「近々、また誰かが裕福な貴族に引き取られるらしい」という噂だ。
この孤児院では、定期的に子供が「引き取られて」いく。表向きは慈善事業に熱心な貴族や豪商が、養子や使用人として連れて行くということになっていた。子供たちは口々に「次は自分かもしれない」と希望を口にしていた。
(……よくある話、だけどね)
アリアは廊下の雑巾がけをしながら、胸の奥に冷たい違和感を覚えていた。
引き取られていった子供たちから、手紙の一通も届いた試しがない。いくら新しい生活が忙しいとはいえ、あんなに仲が良かった友達にさえ音信不通になるのは、どうにも不自然だった。
パチャリ、とバケツの水が揺れる。
ちょうど、院長室の前に差し掛かった時だった。
普段なら固く閉ざされている重厚な木の扉が、ほんの数センチだけ、隙間を空けて開いていた。中から、低い話し声が漏れ聞こえてくる。
「――例の『検体』の準備は進んでいるかね、院長」
聞き覚えのない、冷酷で傲慢な男の声だった。上質な衣服が擦れるような音がする。貴族か、あるいはそれに準ずる立場の人間だろう。
「ははっ、滞りなく。次のロットの子供たちは、皆すこぶる健康でございますよ、伯爵閣下」
院長の、いつになく卑屈で、ねっとりとした声が続く。アリアは思わず手を止め、息を殺して耳を澄ませた。
「ふん、健康なだけでは困るのだ。あの『神の血』の実験は、人間の肉体には負荷が強すぎる。前回の奴らは全員、一回目の投与で肉体が耐えきれず、見るも無残に弾け飛んだからな。資金を垂れ流している組織の上層部も、そろそろ痺れを切らしている」
「分かっております。ですから今回は、魔力の親和性が高い個体を厳選しております。……特に、あの黒髪の娘。アリアという名の孤児ですが、あれはなかなかに見込みがあります。見た目も良い、邪神様のお好みに合うやもしれません」
心臓が、ドクンと大きく跳ね上がった。
アリアの全身から、すうっと血の気が引いていくのが分かった。
(……実験? 神の血? 私が、そろそろ連れていかれる……!?)
手足が氷のように冷たくなる。この孤児院の裏の顔。それは、慈善の皮を被った「人間実験の素体供給所」だったのだ。引き取られていった子供たちが誰一人として連絡をしてこない理由が、最悪の形で繋がってしまった。彼らは引き取られたのではない。実験台として買われ、そして――死んだのだ。
激しい動揺が、アリアの身体を揺るがした。
一歩、後ろへ下がろうとしたその時、足元に置いていた木製のバケツに、つま先がわずかに当たってしまった。
カタッ。
静かな廊下に、あまりにも明瞭な乾いた音が響く。
「――誰だ!」
院長室の中から、鋭い怒声が上がった。
しまって、と脳裏で警報が鳴り響く。アリアは前世の記憶と、この数年間で培った冷徹さを総動員し、声を出さずに全力でその場から地を蹴った。
バケツをそのままにすれば足がつく。アリアは一瞬の判断でバケツの取っ手を掴み、水の音を立てないように細心の注意を払いながら、廊下の角を曲がり、死角へと滑り込んだ。
直後、院長室の扉が勢いよく開く音が響く。
「……誰もいませんな。気のせいでしょうか」
「いや、確かに物音がした。ネズミか、あるいは……」
ドタドタと重い足音が廊下を歩く気配がしたが、アリアはすでに別の通路を通り、何食わぬ顔で一階の食堂へと戻っていた。心臓がうるさいほどに鳴り響き、肺が酸素を求めて激しく上下するのを、必死に抑え込む。
姿は見られていない。それは確信があった。だが、疑いは残る。
その予想は、すぐに現実のものとなった。
その日の夕方の掃除時間。いつもなら部屋に引きこもっているはずの院長が、珍しく廊下や広場を徘徊し始めた。その目は血走り、子供たち一人一人を値踏みするように睨みつけている。
アリアはルインと共に、中庭の落ち葉を掃いていた。そこへ、院長がゆっくりと近づいてくる。
「おい、お前たち」
「はい、院長先生。何か御用ですか?」
アリアは極力、いつも通りの「従順で、ちょっと生意気な子供」を演じて返事をした。
「……さっきの掃除の時間、お前たちはどこにいた?」
「え? ずっとここでルインと落ち葉を拾っていましたけど。ねえ、ルイン?」
「……うん。アリアと一緒に、ここにいたよ」
ルインは院長を冷たい目で見据えながら、淀みなく嘘をついた。ルイン自身は何も知らないはずだが、アリアの様子がどこかおかしいことを察して、話を合わせてくれたのだろう。
「そうか……。だが、お前たちのうち、どちらかがしばらく姿を消していたという話を聞いたぞ」
院長の目が、ぎらりと光った。
(チッ、誰か他の子供に見られてたか、あるいはカマをかけているのか……!)
どちらにせよ、院長はアリアが「あの時、院長室の前にいた可能性が高い」と目星をつけている。アリアがいなかった時間帯があることを、院長はすでに確信しているようだった。
もう、時間がない。
泳がされているだけだ。近いうちに、予定を前倒ししてでも、自分はあの「実験場」とやらに連れていかれる。
「……ルイン。今日の夜、部屋に戻ったら話がある」
アリアは竹箒を動かしながら、院長に聞こえないほどの小声でルインに告げた。
ルインは表情を変えず、ただ短く「分かった」とだけ答えた。
――その日の深夜。
孤児院全体が深い眠りに落ち、静寂が支配する時間。
アリアはベッドから音もなく起き上がると、昼間のうちにベッドの下に隠しておいた小さな布包みを取り出した。中身は、厨房から少しずつ盗み出しておいた数日分の干し肉と黒パン、そして古びた果物ナイフが一本。
「アリア……?」
対面のベッドから、ルインが上半身を起こした。その金色の瞳は、暗闇の中でも不気味なほど鮮やかに光っているように見えた。彼は最初から起きて、アリアの動きを待っていたのだ。
アリアはルインのベッドの横に膝をつき、声を極限まで潜めて話し始めた。
「ルイン。驚かずに聞いて。……この孤児院は、裏で子供たちを売ってる。売られた子供たちは、全員『実験台』にされて死んでる。私も、もうすぐ連れていかれる」
「……え?」
ルインの目が見開かれる。当然の反応だ。しかし、彼は取り乱さなかった。アリアの真剣な、そして冷徹な瞳を見て、それが紛れもない事実だと理解したのだろう。
「私は今夜、ここを逃げ出す。……ルイン、あなたを置いていくことも考えた。でも、私がいなくなれば、次あなたが標的になるかもしれない。……一緒に、逃げる?」
アリアが差し出した手を、ルインは躊躇うことなく掴んだ。その力は、八歳の子供のものとは思えないほど強かった。
「行く。アリアが行くなら、僕もどこへでも行く。君を一人にはさせない」
「よし。じゃあ、準備して。余計なものは持たないで」
二人は音を立てずに部屋を抜け出した。
昼間のうちに、一階の倉庫の窓の鍵を緩めておいた。そこから這い出し、高い塀の壊れかけた部分をよじ登る。アリアが先に上り、ルインの手を引っ張り上げて、二人は夜の闇へと飛び降りた。
冷たい夜風が、アリアの黒髪を揺らす。
「走るよ!」
二人は手を繋ぎ、孤児院の敷地から外へと走り出した。王都の裏路地、街灯も届かない暗い迷路のような道を、前世の記憶を頼りにマッピングしたルートに沿って突き進む。
しかし、大人の、それも「プロ」の追手を甘く見すぎていた。
逃亡からわずか数分後。背後の闇から、激しい足音と、金属が擦れ合う音が響いてきた。
「いたぞ! あっちだ! ガキどもが裏路地へ逃げ込んだ!」
「クソッ、もう気づかれた!?」
アリアは焦りを噛み殺しながら、ルインの手を引いてさらに速度を上げた。
「ルイン、こっち! 狭い道を通り抜ける!」
「うん……っ!」
裏道を使い、曲がり角を何度も曲がって視線を遮る。前世の知識を総動員し、追跡のセオリーを外すように動くが、追手は執拗だった。おそらく、犬か、あるいは魔術的な探知アイテムを使っている。
執拗な追跡に、アリアの心臓は破裂しそうだった。子供の貧弱な体力は、すでに限界を迎えつつある。それはルインも同じだった。
その時、背後で鋭い風切り音がした。
ヒュンッ!
「あぐっ……!?」
ルインが短い悲鳴を上げ、激しく転倒した。繋がっていた手が、強引に引き剥がされる。
「ルイン!?」
アリアが慌てて振り返ると、ルインが石畳の上で、片脚を押さえてうめいていた。彼のふくらはぎの肉が、鋭く切り裂かれている。追手が放った矢が、彼の足を掠めたのだ。
傷口から、鮮血がどくどくと溢れ出し、ルインの綺麗な金色のズボンを赤黒く染めていく。
「ア、アリア……足が、動かない……」
ルインは必死に立ち上がろうとするが、激痛に顔を歪め、再び崩れ落ちた。走ることは、もう不可能なのは一目瞭然だった。
背後から、追手の足音が確実に近づいてくる。あと数十秒もすれば、この直線通路に追手が姿を現すだろう。そうなれば、二人とも捕まる。
(どうする? 二人でここで捕まるか? いや、それじゃ意味がない。……なら!)
アリアの脳が、極限状態の中で弾き出した結論は、あまりにも無謀で、しかしこれしかない選択だった。
「ルイン、聞いて」
アリアはルインの身体を抱き起こすと、すぐ横にあった、ゴミや木箱が積み上がった建物の隙間――大人の体躯では入り込めないような狭い物陰へと、彼の身体を押し込んだ。
「アリア? 何を――」
「ここに隠れて。静かに、息を潜めてて」
アリアはルインの血のついた脚を、自分の上着を破いた布で素早く縛り、木箱の影に彼を完全に隠した。
「だめだ! アリア、君はどうするの!? 置いていかないで!」
ルインが泣きそうな声で、アリアの服の裾を掴む。その金色の瞳に、絶望の涙が浮かんでいた。
アリアは、ルインの頬に優しく手を触れた。
「私が囮になる。私がアイツらを引きつけるから、あなたはここでじっとしてて」
「嫌だ! 僕も行く! 僕が捕まるから、アリアは逃げて!」
「ダメよ。ルイン、約束して。――絶対に出てきてはいけない。私が捕まっても、あなたは生き残るの。いい音を出したり、動いたりしたら、二人とも死ぬわ」
アリアの強い、有無を言わせぬ口調に、ルインは息を呑んだ。
「……っ、アリア……アリア!!」
「大丈夫。私は、簡単には死なないから」
前世が男だったプライドか、あるいはこの数ヶ月で芽生えた彼への情か。アリアは、ルインの手を優しく、しかし毅然と振り払うと、物陰から飛び出した。
そして、わざと大きな足音を立てて、ルインとは逆の方向へと走り出す。
「おい! あそこに一匹いるぞ!」
「黒髪のガキだ! アリアだな! 追え!」
追手たちの意識が、完全にアリアへと向いた。背後で、木箱の隙間からルインが絶望に満ちた声を押し殺して泣いている気配がしたが、アリアは振り返らなかった。
(これでいい。ルインは、あそこなら見つからない……!)
路地を曲がったところで、アリアの体力が完全に底を突いた。足がもつれ、地面に激しく倒れ込む。
すぐに、何人もの屈強な男たちがアリアを取り囲んだ。
「ハァ、ハァ……すばしっこいガキめ。……おい、もう一匹の金髪のガキはどうした?」
「あっちへ……逃げたわよ。街の外へ……」
アリアは嘘をつき、荒い息を吐きながら男たちを睨みつけた。
「まあいい、院長の指定はこいつが最優先だ。金髪のガキは、後で兵を回して探させろ。時間が惜しい、早く連れて行くぞ」
一人の男が、懐から奇妙な小瓶を取り出し、その中身を染み込ませた布をアリアの顔に押し当ててきた。
ツンとする、刺激臭。
(あ……これ、麻酔、薬……――)
抗う術もなく、アリアの意識は急速に深い闇へと沈んでいった。
遠のく意識の中で、アリアはただ、ルインが逃げ延びてくれることだけを願っていた。
――これが、アリアの「人間」としての人生の、終わりの始まりだった。




