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サキュバスの観察日記と、妖狐の甘いお戯れ

「……はぁ、やっと静かになったわ」


放課後。ノヴァの「マスター、栄養補給の時間です」という無機質な追跡と、シエルの「一緒に飛ぼうよ!」という騒がしい誘いからどうにか逃げ延びた私は、特級学園の誇る『大図書館』の最奥に足を踏み入れていた。

ここはマナの防音結界が張られていて、蔵書の匂いと適度な冷たさが心地いい。極限まで削られたマナと体力を回復させるための、最高のシエスタ(昼寝)スポットだ。


「ここなら、あの騒がしい連中も来ないわね」


私は人気のない古書エリアの長机に突っ伏し、冷たい木の感触に頬を預けた。

目を閉じ、呼吸を浅くして体内の三つの力の均衡を保つ作業に意識を沈めようとした、その時だった。


「……随分と無防備な寝顔ですわね、シャルルさん」


甘く、それでいて知的な響きを持つ声が鼓膜を揺らした。

微かに目を開けると、向かいの席に優雅に腰掛け、分厚い魔導書からこちらに鋭い視線を向けている女生徒がいた。

サキュバス族のエリートであり、学園トップクラスの成績を誇る優等生――リゼだ。

タイトな制服をはち切れんばかりに押し上げる規格外の双丘と、知的で冷ややかな眼鏡の奥の瞳。彼女の手元には、なぜか『シャルル観察記録』と表書きされた真新しいノートが開かれている。


「……あなた、たしか同じクラスの。ごめんなさい、私、今はとても眠いの。話しかけないでちょうだい」


私は再び目を閉じようとしたが、リゼはパタンと本を閉じ、不敵な笑みを浮かべた。


「そう冷たくしないでくださいな。わたくし、あなたにとても興味があるのです。……最低の【階位なし】でありながら、機械族のノヴァを従え、天使族のシエルを手懐ける。あなたのその華奢で貧弱な身体のどこに、そんな秘密が隠されているのか……」


リゼの瞳が、ふわりと魅惑的なピンク色に発光した。

サキュバス族特有の精神干渉術式『甘い夢魔スイート・トランス』。

対象のマナの波長に強制的に同調し、心の奥底の秘密を暴き出す高度な探求魔法だ。彼女は私を試そうとしている。


「……さぁ、あなたの本当の力を、少しだけ見せていただき――」


シュンッ。


「……え?」


リゼの放ったピンク色のマナが私の肌に触れるか触れないかの刹那。私の中の三つの力が無意識のうちに『不要なノイズ』として弾き返し、彼女の術式は音もなく霧散した。


「……ん、ちょっと埃っぽいわね。換気してないのかしら」

私は寝ぼけ眼で適当に空気を手で払い、また机に顔を埋める。


「な、ななな……っ!?」

リゼはガタッ!と椅子から立ち上がり、眼鏡をずらして驚愕の声を上げた。

「わ、わたくしの精神干渉が……完全に無効化された!? いえ、防がれたとすら認識してない!? しかも、この何層にも圧縮された異常なマナの壁は一体……っ!」


「クククッ……無駄じゃよ、サキュバスの小娘。その子の本質は、お主の小賢しい術式で測れるような浅いものではないからのう」


突然、私の頭上――高くそびえる本棚の上から、甘いお香の匂いと共に艶やかな声が降ってきた。

見上げると、妖狐のシラヌイが九つの尾をゆらゆらと揺らしながら、本棚の縁に寝そべってこちらを見下ろしている。


「シラヌイ様!? 天狗族すら一目置くというあなたが、なぜこんな場所に……!」

「なぜって? そりゃあ、面白い玩具を観察するためじゃよ。なぁ、シャルル?」


シラヌイはひらりと音もなく床に飛び降りると、私の隣に滑り込んできた。


「……あなたも来たの。本当に、私の周りは騒がしい生き物ばっかりね」

「冷たいことを言うな。お主が必死にマナを節約して逃げ回る姿が可愛くて、つい追いかけてしまったのじゃ」


シラヌイはクスクスと笑いながら、私にピタリと身体を密着させてきた。

彼女の豊満で柔らかな胸が、私の華奢で起伏のない背中に押し付けられる。体温と、妖族特有の甘く重いマナの気配。私が他者との接触を極端に嫌うことを知っていて、わざとやっているのだ。


「……っ、離れなさい。マナが乱れるわ」

「ほう? 乱れるとどうなるんじゃ? こうして耳元で囁かれるだけでも、お主の心拍数は少し上がっておるが?」


シラヌイは私の耳元に唇を寄せ、吐息を吹きかけるように囁いた。背筋をゾクッとさせるような色気に、私は思わず身をよじって彼女の手を払いのけようとする。

しかし、彼女は妖狐の圧倒的な敏捷性で私の手をふわりと躱し、今度は九つのモフモフとした尾で私の細い腰をぐるぐると絡め取ってきた。


「ちょっと……! 暑苦しいのだけれど……!」

「ふふっ、無駄な抵抗はしないことじゃ。お主のその『超省エネ』な動きでは、妾の尻尾からは逃れられんぞ?」


シラヌイは扇子で口元を隠し、悪戯っぽく目を細める。

「嫌なら、本気を出して妾を吹き飛ばしてみるか? それとも……マナが足りなくて苦しいなら、妾の血を少し分けてやろうか? 首筋でも、唇からでも構わんぞ?」


わざと「血」という言葉を出して私を煽ってくる。

血の匂いを想像しただけで気分が下がる私は、抵抗すら面倒になって、全身の力を抜いて机にだらんと項垂れた。


「……もう好きにしなさい。私は寝るわ。埃が舞うから、これ以上動かないでちょうだい」

「あははっ! 本当に図太い子じゃ!」


完全に諦めてぬいぐるみのようにシラヌイの尻尾に巻かれている私を見て、向かいの席のリゼはペンを震わせてノートに猛烈な勢いで書き込みを始めていた。


「……精神干渉を無意識に無効化……。さらに、あの誇り高きシラヌイ様にこれほどまでに執着され、弄ばれながらも……一切の動揺を見せない(※本人は寝たいだけ)……! シャルル……あなたという存在は、なんて恐ろしくて、そして……」


リゼの眼鏡の奥の瞳が、先ほどの知的さとは違う、獲物を見つけたような熱っぽい色を帯びていく。


「……なんて、研究しがいのあるお方なのですか……!!」


サキュバスの底知れぬ探求心(という名のストーカー気質)に火をつけてしまったことなど露知らず。

私はシラヌイの甘い香水と尻尾の毛に包まれながら、今日何度目か分からない深大なため息と共に、意識を手放すのだった。

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