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天使の動揺と、サキュバスの矜持

「……っ! あ、あの、シャルル……お、おはよう!」


翌朝、中庭のベンチでうたた寝していた私の前に、シエルが真っ赤な顔をして現れた。

いつもの「アタシが最強! アタシが一番可愛い!」と言わんばかりの堂々とした態度はどこへやら。彼女は自分の大きな羽をバサバサと落ち着きなく動かし、視線を私の膝あたりに固定したまま、激しく動揺している。


「……おはよう、シエル。声が大きいわ。耳に響くから、もう少しボリュームを絞ってちょうだい」


「あ、ごめん! そうだよね、シャルルは静かなのが好きだもんね! ……あ、ううん、その……えへへ……」


シエルは私の顔をチラッと見ては、すぐに視線を逸らしてモジモジと指をいじり始めた。

あんな夢――私と唇を重ねる夢――を告白して以来、彼女は私の隣に立つだけで、顔が茹で上がったように赤くなるようになってしまった。


「……シエル。具合が悪いの? 顔、すごい色になってるけど」


「そんなことない! アタシは健康そのもの! ただ、ちょっと……その……思い出しちゃうっていうか、なんというか……」


(……何をよ)


と言いかけて、私は口を閉じた。

彼女が意識しているのは、あの夢だ。そして、同じ記憶を私も共有している。

『私たちの力ごと食べて』――あの時、夢の中で私に触れたのは、間違いなくシエルのような白い光だった。


(……本当に、ただの夢なのかしら)


私が黙って彼女を見つめていると、シエルはますます居心地悪そうに「あ、アタシ、購買でパン買ってくる!」と叫んで、飛ぶというよりは逃げるように去っていった。

純白の羽が、少しだけ乱れて抜けている。相当なパニック状態のようだ。


「……やれやれ。あんなに分かりやすい天使、初めて見たわ」


「ふふっ。あの方は純粋すぎますから。……さて、マスター。シエルさんの観察もよろしいですが、そろそろこちらの『最適化案』に目を通していただけますか?」


背後からスッと現れたのは、いつも通り完璧な立ち振る舞いのリゼだった。

彼女は手に持った魔導タブレットを操作し、私の前にいくつかの複雑なグラフを表示させる。


「リゼ。あなた、今日はお見舞いのノート取りはいいの?」


「わたくしを誰だと思っていらして? そんな雑務は登校前の15分で完璧に完了させておりますわ。……今、わたくしが全力を注いでいるのは、あなたの『絶対階位ゼロ・ティア』のシステム構築です」


リゼの瞳が、眼鏡の奥で鋭く光る。

普段、私をストーキングしたり、変な精力剤を勧めてくる時の彼女とは、明らかに違う雰囲気。それは、サキュバスという種族の中でも極一部のエリートだけが持つ、知性とプライドの輝きだった。


「リゼ……あなた、まだその解析を続けていたの?」


「当然ですわ。あの一撃は、あなたの脳に致命的な負荷をかけました。……わたくしはあなたの秘書。マスターを『無敵』に、かつ『快適』にすることこそが、わたくしの存在意義ですの」


リゼが指し示した画面には、私のマナの波長と、脳の許容範囲、そしてノヴァの演算コアの同期率が、驚くほど緻密な「装備構成」のように並んでいた。


「魔族の闇、天族の光、妖族の気……これらをバラバラに回すのは非効率です。わたくしは、この三つを循環させ、脳への負荷を80%カットする『演算バイパス術式』の構築に成功しましたわ。これさえあれば、ノヴァさんとのおでこ直結……あぁ羨ましい!……がなくとも、ある程度の高出力に耐えられるはずです」


「……リゼ。あなた、もしかして寝てないんじゃない?」


私は、リゼの目の下にわずかに浮かんだクマを見逃さなかった。

彼女は一瞬だけ口籠り、すぐに「化粧で隠しきれないなんて、不覚ですわ」と苦笑した。


「……わたくしたちサキュバスは、古来より『知の深淵』を求める種族。ですが、わたくしが求めているのは、ただの知識ではありません。……シャルルさん。わたくし、あの大天狗の戦いの後、初めて心から『怖い』と思ったのです」


リゼはタブレットを胸に抱きしめ、少しだけ声を低くした。


「あなたの力が、あなた自身を壊してしまうのではないか。……その恐怖を拭う唯一の方法は、わたくしの知性で、あなたの力を完全に飼い慣らすための『盾』を作ること。……それが、わたくしの誇りなのです」


いつもは変態的なアプローチばかりのリゼが、初めて見せた「自分自身の弱さと、それを乗り越えるための矜持」。

私は少しだけ驚いて、それから――彼女の疲れきった頭を、そっと撫でた。


「……リゼ。お疲れ様。その術式、今度試してみるわ。……でも今日はもう、そのノートを閉じて寝なさい。……秘書が倒れたら、私のスケジュールが全部狂っちゃうから」


「……っ。……は、はい。心得ましたわ、マスター」


リゼは顔を真っ赤にして、今度は別の意味で動揺しながら、バタバタとタブレットを抱えて走り去っていった。


「…………」


あっちに逃げた真っ赤な天使と、こっちに走り去った真っ赤なサキュバス。

私はベンチに深く座り直し、心地よい風に目を細めた。


(……みんな、一生懸命ね。……それに比べて、私は……)


私は自分の手のひらを見つめ、あの一撃の感覚を思い出す。

絶対階位。それを守るために、脳を捧げた機械と、知を捧げた悪魔。

そして、記憶を分け合った天使。


(……あ。シラヌイに、お土産の団子を頼むのを忘れたわ)


私は平和な日常のひとときを噛み締めながら、もう一度、深く深い眠りへと落ちていった。

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