絶対階位(ゼロ・ティア)と、歴史を見逃した秘書
大天狗が消滅し、空を覆っていた『腐血の結界』が完全に晴れてから数日が経った。
特級学園は今、かつてないほどの混乱と事後処理に追われていた。
天狗族の強襲による被害は甚大だった。結界の毒に当てられ、重傷を負った生徒や教師は数百人にのぼる。
そして何より、この前代未聞のテロリズムを引き起こした天狗族への『責任追及』は、凄まじいものだった。長である大天狗を失った天狗族は、世界中のあらゆる種族から糾弾され、残党たちは学園と世界評議会によって拘束・尋問を受けている。
「血の純度」などと傲慢な理想を掲げていた彼らの歴史と権力は、あの一日で完全に地に落ちてしまったのだ。
だが、そんな外の喧騒など、今の私にはどうでもよかった。
「……シエル。まだ、起きないのね」
学園の特別医療棟。
静寂に包まれた病室で、私はベッドで眠り続けるシエルの頬をそっと撫でた。
『腐血の結界』による呪いは、シラヌイの妖力とリゼの魔導工学、そして私のマナを送り込むことで完全に解呪されている。黒く染まっていた彼女の羽も、今は本来の美しい純白を取り戻していた。
それでも、天族である彼女の神聖な器が受けたショックは計り知れず、彼女は深い昏睡状態に陥ったまま、目を覚ます気配がない。
「……マスター。シエル様のバイタルは完全に安定しています。肉体的な損傷はゼロ。あとは、精神領域が回復し、自己再起動を果たすのを待つのみです」
ベッドの反対側から、ノヴァが静かに告げた。
彼女の機体は、あの激戦が嘘だったかのように完璧に修復されている。私の心臓と彼女のコアが『同期』を果たしたことで、自己修復機能が劇的に向上したのだ。
「ええ、分かってる。……でも、やっぱりあの子の騒がしい声が聞こえないと、少し調子が狂うわね」
私が小さくため息をついた、その時。
「……ふふっ。お主が誰かを心配してやるなんて、本当に変わったのう、シャルル」
病室の窓際に置かれたソファーで、煙管を吹かしていたシラヌイが、艶やかに笑った。
彼女の身体にはまだ痛々しい包帯が巻かれているが、妖狐の驚異的な回復力のおかげで、すでに顔色はすっかり良くなっている。
「……シラヌイ。あなたも、まだ寝ていなくていいの?」
「妾はもう平気じゃ。それより、お主が最後に放ったあの一撃……まだ詳しく話を聞いておらんかったな」
シラヌイは煙管を置き、切れ長の瞳を真剣なものへと変えた。
「お主は、自らのあの力を無意識に『絶対階位』と呼んだな。……あれは、既存の魔術理論を根本から破壊する、とんでもない代物じゃぞ」
「……ただ、三つの力を限界まで圧縮してぶつけただけよ」
「それが規格外なんじゃよ。……普通、魔術というのは属性の『相性』や『法則』に従って敵の術式に干渉するものじゃ。火は水に弱く、光は闇を照らすように。……だが、お主のあの無色の光は違った」
シラヌイは少し身を乗り出し、私の目を真っ直ぐに見た。
「あれは、相性などという概念を完全に無視していた。圧倒的で理不尽なまでのマナの質量によって、大天狗の結界を破るのではなく……結界が存在した『空間そのもの』を、強引に白紙に塗りつぶしたのじゃ」
「空間を、塗りつぶす……」
「そうじゃ。敵の術式を上書きする、絶対的な支配の力。……だからこそ、『絶対階位』。既存の第一から第十までの階位の枠組みには絶対に収まらない、次元の違う一撃じゃった」
シラヌイはふぅ、と深く息を吐き、感嘆の声を漏らした。
「今回攻めてきたあの大天狗……奴は間違いなく、世界を滅ぼしかねない『特級階位』のバケモノじゃった。歴史に悪名を轟かせるほどの力を持っておったよ。……だが、お主のあの一撃は、そんな特級階位すらも児戯に等しいと思わせるほど、美しく、そして恐ろしかった」
大妖怪である彼女にそこまで言わしめる私の力。
ノヴァと『脳』を直結しなければ自爆していたほどの諸刃の剣だが、その威力は確かに、私の想像すらも超えていたのだ。
「……ギリィィィィッ!!」
その時、病室の隅から、ハンカチを噛みちぎらんばかりの悔しげなうめき声が聞こえてきた。
リゼだ。
彼女は手元の魔導タブレットを抱きしめながら、血の涙を流すような顔でプルプルと震えている。
「なんたる……なんたる不覚ですわ……っ!!」
「リ、リゼ? どうしたのよ急に」
「あの大天狗の呪詛の構造! ノヴァさんの演算直結プロセス! そして何より、既存の魔導史を根底から覆すシャルルさんの『絶対階位』の初観測……っ!! なぜ、なぜわたくしは防空壕代わりの演習室で、指をくわえて震えていることしかできなかったのですかぁぁっ!!」
リゼはバンバンと壁を叩きながら、本気で悔しがっていた。
「この目で……わたくしのこの目で、歴史の転換点とも言えるその瞬間を観測し、数式として記録したかったですわ! あぁぁ、サキュバスの探求者として一生の不覚……っ!! 死にたいですわ!!」
「……あの時、あなたがシエルを守ってくれていなかったら、シエルは死んでいたわよ」
私が苦笑しながら言うと、リゼはハッとして、照れ隠しのように眼鏡を押し上げた。
「そ、それは……わたくしはシャルルさんの有能な秘書ですから、その程度のタスク管理は当然ですわ! ……ですが、次は絶対に! わたくしも特等席でシャルルさんの無双を記録いたしますからね!」
病室に、少しだけ明るい空気が戻る。
私はクスッと笑い、再びシエルの寝顔へと視線を落とした。
(……特級階位の天狗すら超える力。そして、大天狗が最後に言い残した『神族のトップ』の存在)
私の力は、もう学園という小さな枠の中には収まりきらない。
でも、だからといって、私のやることは変わらない。面倒くさいことは極力避けたいし、このふかふかのベッドで、仲間たちと一緒に平和に眠り続けたいだけだ。
「……早く起きなさいよ、シエル。あなたがいないと、退屈で仕方ないわ」
私はシエルの白い手に自分の手を重ね、静かな声で語りかけた。
この絶対的な力で、次に訪れる『理不尽』をどうやって叩き潰してやろうかと考えながら。




