腐血の呪詛と、傲慢なる飛羽
「……ぁ、う、あぁぁ……っ!!」
演習室の床に崩れ落ちたシエルが、胸を掻き毟りながら苦悶の悲鳴を上げた。
彼女の純白だった羽は、毛細血管から染み出したような『どす黒い赤』に汚れ、ポロポロと抜け落ちていく。神聖な天族である彼女にとって、生物の血を内側から腐らせる天狗の『腐血の結界』は、存在そのものを否定されるような猛毒だ。
「シエルさん! しっかりなさい! っ、くぅ……!」
シエルを抱き起そうとしたリゼもまた、ガクンと膝をついて激しく咳き込んだ。
彼女の口元から、黒く濁った血が滴り落ちる。
本来、サキュバスなどの魔族は呪いや毒への耐性が極めて高い。だというのに、リゼの顔は土気色に染まり、自慢の豊満な身体は痙攣するように震えていた。
「リゼ……! あなたまで……っ」
「……ごめんな、さい。シャルルさん……。この結界、ただの毒ではありませんわ。生き物の『マナを巡らせる機能』そのものを、強引に腐敗させる……極めて高度な『呪い』ですわ。魔族の耐性すら、やすやすと貫通して……っ」
リゼは血を吐きながらも、必死にシエルの身体に治癒の術式を巡らせようとしている。だが、その術式すらも紫の霧に触れた端から黒く変色し、霧散してしまっていた。
「……チッ。まさか、同族の誇りすら捨てて、こんな禁忌の呪具を持ち出すとはな」
窓の外、赤黒く染まった空を睨みつけながら、シラヌイがギリッと奥歯を鳴らした。
彼女の顔にも苦痛の色が滲んでいる。大妖怪である彼女ですら、血管に焼けるような痛みを感じているのだ。
「シラヌイ。あいつら、一体何が目的なの? どうして学園を無差別に……」
私が問うと、シラヌイは鋭い瞳で天狗の群れを見据えながら答えた。
「奴らの狙いは、学園ではない。……お主じゃよ、シャルル」
「……私?」
「天狗族は、妖族の中でも極端に『血の純度』と『世界の均衡』を重んじる、傲慢で狂信的な連中じゃ。……数日前。お主が迷宮の底で妾の血を吸い、暴走させたあの『原初の波動』。あれは、学園の結界すら貫いて世界中に響き渡った」
シラヌイの言葉に、私は息を呑んだ。
あの時、シラヌイの首筋を噛み切り、巨大な古代トカゲを一瞬で塵に帰した、あの圧倒的な力。
「奴らは気付いたんじゃよ。この学園に、世界の理すら破壊しかねない、規格外の『異物』が目覚めたことにな。……だからこそ、問答無用で潰しに来た。おそらくは学生レベルの仕業ではない。天狗族のトップが……お主が完全に覚醒する前に、血管を腐らせるこの禁忌の結界で、学園ごと『消毒』するつもりなんじゃ」
「……私のせいで、みんなが巻き込まれたっていうの……?」
私は唇を噛み締めた。
私が自分の飢えを抑えきれず、力を解放してしまったせいで。シエルやリゼが、今こうして理不尽な死の苦しみに直面している。
ドクン、と。私の血管の中にも、呪いが入り込もうとする不快な熱が走った。
だが、その熱はすぐに、私の胸にピタリと寄り添う『冷たい体温』によって相殺された。
「……マスター。自己嫌悪は、心拍数を無駄に上昇させます。深呼吸を」
ノヴァだ。
彼女は私の前に立ち、その無機質で美しい銀髪を揺らした。
彼女の胸に埋め込まれた『統括演算コア』が、私のマナと完璧に同期し、私の体内に入り込もうとする『腐血の呪い』をリアルタイムで解析・無効化してくれている。
血を持たない機械である彼女は、この空間で唯一、呪いの影響を全く受けていない存在だった。
「……ええ。分かってるわ、ノヴァ。落ち込んでる暇なんてないわね」
私は顔を上げ、苦しむリゼの肩にそっと手を置いた。
「リゼ。あなたはこれ以上、マナを使っちゃダメ。結界の外に出ることもできないわね」
「シャルル、さん……」
「シエルを頼める? 私とノヴァとシラヌイで、外の連中を黙らせてくる。……それまで、あなたたちの命を繋ぐことだけを考えて」
私の言葉に、リゼは少しだけ目を見張り、やがて力強く、けれど静かに頷いた。
「……分かり、ましたわ。わたくしの全ての魔力を、シエルさんの『時間凍結』と、この部屋の防御バリアに回します。……ですから、どうかご無事で」
「任せなさい。……私の睡眠時間を邪魔した連中に、容赦なんてしてあげないわ」
リゼが最後の力を振り絞り、部屋全体に分厚い防御の術式を展開する。シエルの身体が淡い光に包まれ、その苦痛に満ちた表情が、眠るように穏やかなものへと変わった。
「よし。これで憂いはなくなったな」
シラヌイが、九つの尾に青白い妖狐の炎を宿してニヤリと笑う。
「妾の故郷の頑固ジジイ共に、少し『教育』をしてやろうかの」
「……ルート確保。マスター、これより学園上空の敵対勢力を物理的に殲滅します」
ノヴァが両腕に、旧世界の兵器庫から持ち出したであろう漆黒の機装刃を展開する。
血を持たぬ機械メイド。
血を与えた大妖怪。
そして、その二つの力を従えた、規格外の吸血鬼。
「さぁ、行くわよ。……埃が舞うから、一瞬で終わらせるわ」
私たちは、赤黒く腐食した空が広がる学園の屋上へと、一気に飛び出したのだった。




