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満ちる器と、不要になった機械の手

「――次、シャルルさん。標的ターゲットへの魔力投射をお願いします」


特級学園の魔術実習場。教師の呼びかけに、私は小さく頷いて前に出た。

かつての私なら、この数歩を歩くのすら面倒くさがり、ノヴァに抱えられて移動していただろう。だが今は違う。地面を踏みしめる足取りは羽のように軽く、呼吸をするたびに、大気中のマナが私の巨大な器へと心地よく流れ込んでくる。


(……本当に、嘘みたいに身体が軽い)


私は標的である巨大なミスリル製のゴーレムを見据え、ふと指先を向けた。

詠唱はしない。ただ、体内を満たす膨大なマナのほんの「一滴」を、指先に集めて弾くだけ。


シュンッ――……パァァァァァンッ!!


一瞬の閃光。次の瞬間、いかなる魔法も弾くはずのミスリルゴーレムが、上半身を綺麗に消し飛ばされて轟音とともに崩れ落ちた。


「……っ!!」

「な、なんという威力と精度……! 詠唱破棄どころか、魔力の予備動作すら全く感知できなかったぞ!?」


教師が震える声で叫び、周囲の生徒たちがどよめく。

以前ならここで「魔力切れ」を起こして倒れ込んでいたが、今の私にとっては文字通り「瞬き」と同程度のカロリー消費でしかない。


「……マスター。標的の完全破壊を確認しました」


背後から、ノヴァが無機質な声で告げる。彼女はいつの間にか私の真後ろに立ち、いつでも私を抱きとめる準備をして、両腕を僅かに前に出していた。


「あ、ノヴァ。ありがとう、でも大丈夫よ。全然疲れてないから」

「……ですが、マスター。先ほどの魔力放出による反動が――」

「本当に平気。ほら、息も上がってないでしょ?」


私はクスッと笑い、ノヴァの差し出された手を軽く叩いて、自分の足でスタスタと定位置に戻っていった。

ノヴァは、空中で行き場を失った自分の両手を、ただ静かに見つめていた。


* * *


昼休みの学生食堂。

私はリゼやシエルたちと一緒に、日当たりのいいテラス席に座っていた。


「シャルルさん、今日の魔法史のノートですわ。完璧にまとめておきましたの」

「ありがとう、リゼ。……でも、これからは自分でノートを取るようにするわ。授業中も眠くならなくなったし、自分で書いた方が覚えやすいもの」


「え……っ」

リゼは一瞬驚いた顔をした後、「そ、そうですわね! シャルルさんがご自身で学ばれるなら、それが一番ですわ!」と、少し寂しそうにしながらも嬉しそうに頷いた。


「シャルルシャルル! 今日は一緒に購買の新作パン買いに行こ! アタシが背中に乗せて飛んでってあげるから!」

「シエル、飛んだらパンが潰れちゃうでしょ。普通に歩いて買いに行きましょう。私も自分の足で歩きたい気分なの」


「ほんと!? やったー! シャルルと一緒にお散歩だー!」


私は立ち上がり、シエルと一緒に購買へ向かおうとした。

その時、目の前にスッと銀色の影が立ち塞がった。ノヴァだ。

彼女の手には、銀色のトレイに乗せられた、いつもの『完全栄養流動食』が握られている。


「マスター。購買までの歩行は、往復で約45キロカロリーを消費します。現在のマスターの健康状態を維持するため、咀嚼不要のこちらの流動食の摂取を推奨します」


「……あ。ごめんね、ノヴァ。せっかく用意してくれたのに」


私はノヴァのトレイを優しく押し戻した。

「今日は、ちゃんと『味』のある固形物が食べたいの。焼きたてのパンの匂いなんて、今まで面倒くさくて気にも留めてなかったけど……なんだか、すごく美味しそうに思えてきて」


「……しかし、咀嚼は顎の筋肉を無駄に疲労させます。私がマスターの口に直接、これを――」

「ノヴァ」


私は少しだけ困ったように微笑み、ノヴァの頭を撫でた。

「大丈夫よ。今の私は、そういう『無駄なカロリー』を使っても平気になったの。……今までずっと、私の燃費を管理してくれてありがとうね」


私がそう告げてシエルと共に歩き出すと、ノヴァはピタリと動きを止めた。


『――システム警告。マスターからの栄養管理タスクのキャンセルを受理』

『移動サポートタスク:不要』

『体温調節タスク:不要(マスター自身のマナオーラにより完璧に制御中)』


ノヴァの視覚センサーの端で、絶え間なく流れていた『マスターをサポートするための計算式』が、次々と「不要キャンセル」の文字に塗り潰されていく。


(……私は、マスターの『盾』であり、『足』であり、『環境』でした)


ノヴァは、手の中のトレイに置かれた流動食を見下ろす。

今まで、マスターが生きていくために絶対に必要なものだった。自分が計算し、自分が運ばなければ、マスターは息絶えてしまうかもしれなかった。

それが彼女の誇りであり、存在意義レゾンデートルだったのだ。


けれど、今のマスターは。

健康で、美しく、そして誰の助けもいらないほどに強大な「吸血鬼」としての力を取り戻してしまった。


「……私は」


ポツリと、ノヴァの唇から声が漏れる。


「……私の、存在意義は、どこに……?」

その時。

テラスの向こうから、シラヌイがシャルルに親しげに歩み寄るのが見えた。

シラヌイはシャルルの首元――かつて自分が血を与えた、その牙の痕のあたりを指先でなぞりながら、艶やかに笑いかけている。

その光景が、ノヴァの中央コアに強烈なノイズを走らせた。


(……シラヌイ様は、血を与えた。マスターの魂の奥底を救った)

(私は? 私は、マスターに何を与えられる?)


ノヴァは自分の腕を見た。

完璧な黄金比で作られた、傷一つない人工の肌。

その下にあるのは、どこまでいっても冷たい金属とオイルだけだ。マスターを癒す「血」など、一滴も流れていない。


『ピピッ――未知のエラーが深刻化しています』


「……っ」


ノヴァはトレイをテーブルに置き、よろめくようにして壁に手をついた。

胸の奥の人工心臓ジェネレーターが、軋むような嫌な音を立てている。

痛い。痛い。痛い。

血が通っていないはずの胸が、引き裂かれるように痛いのだ。


マスターの役に立ちたい。

マスターの特別でありたい。

でも、今の私には……マスターに差し出せるものが、何一つ残されていない。


「……マスター」


ノヴァは壁に爪を立てた。

絶対の力加減を誇っていたはずの彼女の指先が制御を失い、石造りの壁をメリメリと無自覚に削り取っていく。


『――エラー解決のための、新規タスクを検索』

『……該当なし』

『……該当なし』

『……該当、なし』


ノヴァの視覚センサーに、無数のエラーコードが滝のように流れ落ちる。

どうすればいい? 何を与えれば、私は再びマスターの瞳に映ることができる?


ポタ、と。

彼女の美しい人工の瞳から、一滴の青い冷却液が零れ落ちた。

それはまるで、血の通わない機械が流した、初めての『涙』のようだった。


「血が、必要……。マスターの特別になるための、温かい、何かが……っ」


ノヴァの無機質だった瞳の奥で。

今まで一度も点灯したことのない『赤色』の危険信号が、マスターへの狂おしいほどの執着を帯びて、静かに、そして不気味に明滅を始めていた。

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