原初の目覚めと、赤と白の夢
ドクン、と。
私という極小の器の中で、決定的な「何か」が弾ける音がした。
シラヌイの白く細い首筋に突き立てた牙から、生温かく、ひどく甘い液体が流れ込んでくる。
それは、私が忌み嫌っていた泥臭い獣の血とはまったく違うものだった。何百年もの途方もない時間を生き、研ぎ澄まされてきた大妖怪の生命そのもの。極限まで濃縮された極上のマナの塊。
喉を焼くような強烈な熱が、干からびていた私の血管の隅々にまで一瞬で浸透していく。
(……あ、ぁ……っ)
その瞬間。私の体内で激しく反発し合い、互いを喰らい合っていた三つの力――魔族の『闇』、天族の『光』、そして妖族の『気』が、流れ込んできたシラヌイの血を「完全な触媒(接着剤)」として、ピタリと一つに結びついた。
まるで、ずっとガス欠のまま空回りして悲鳴を上げていた巨大なエンジンに、最高級の燃料が満たされたかのような感覚。
苦しかった呼吸が、嘘のように軽くなる。鉛のように重かった四肢に、羽が生えたように力が満ち溢れていく。
「……ん、ぁっ……」
血を吸われ、急速に体力を奪われたシラヌイが、私の下で力なく喘いだ。
その弱々しい声で、私はハッと我に返った。牙を引き抜き、唇を離す。
私の口元からは、一筋の赤い血が妖しく垂れていた。
「……シラヌイ」
「……はぁっ、はぁっ……」
肩口を深くえぐられ、大量の血を流して床に倒れ伏すシラヌイ。彼女は荒い息を吐きながら、私を見上げて大きく目を見開いていた。
その瞳に浮かんでいたのは、痛みへの苦悶ではない。
目の前にいる存在に対する、純粋で、根源的な『恐怖』と『戦慄』だった。
「なん……じゃ、それは……。お主、一体……どれほどの……っ」
息も絶え絶えに呟くシラヌイの視線の先。
私自身の身体から、私ですら制御したことのない、途方もない量のマナが立ち昇っていた。
それは、普段私が必死に抑え込んでいた量の十倍……いや、数十倍ではきかない。文字通り「桁違い」のエネルギーの奔流だった。
ルシアンの『光喰いの結界石』が作り出した、マナを貪り食うはずの絶対の暗闇。その結界そのものが、私から溢れ出す圧倒的な濃度のマナに耐えきれず、メシリ、メシリと悲鳴を上げてヒビ割れ始めている。
『――グォォォォォォォォォッ!!』
その異常な事態に、古代の巨大トカゲが本能的な危機感を覚えたのか、地響きを立てて再び突進してきた。
鋼鉄の鱗を持つ丸太のような巨腕が、私とシラヌイをまとめて粉砕しようと振り下ろされる。
「……シャルルっ!! 避け――」
シラヌイが悲痛な叫びを上げる。
しかし、私は立ち上がることすらしなかった。
ただ、気怠げな瞳で、頭上に迫る巨大な質量を見上げただけだ。
(……うるさいわね。埃が舞うって、言ってるじゃない)
私は、唇に付いたシラヌイの血を親指で拭いながら、ほんの少しだけ……右手の指先を動かした。
ピチャッ。
それは、水滴が落ちるような、ひどく小さな音だった。
私が指先から放ったのは、複雑な詠唱も、派手な魔法陣も必要としない、極限まで圧縮されたただの『魔力の弾丸』。
燃費を気にする必要がなくなった私の身体は、今まで培ってきた究極の「省エネ(無駄のない制御)」の技術そのままに、この膨大なマナを一ミリの無駄もなく一点に収束させていた。
シュンッ――……!!
音の壁すら置き去りにした黒い閃光が、巨大トカゲの眉間を貫いた。
一拍遅れて。
ズガァァァァァァァァァァンッ!!!!
トカゲの巨体が、まるで風船が弾けるように、内側から爆発して四散した。
肉も、骨も、鋼鉄の鱗も。私の放った圧縮魔力の圧倒的な質量の前に、抵抗することすら許されず、文字通り『原子の塵』となって空間から消し飛ばされたのだ。
血の一滴すら、床には落ちなかった。
「…………な」
背後で、シラヌイが絶句していた。
彼女の持つ大妖怪としての常識が、完全に破壊された瞬間だった。
詠唱もない。タメもない。ただ指先を動かしただけで、旧世界の遺物である規格外の化け物が、一切の痕跡を残さずに消滅したのだ。
それだけではない。巨大トカゲを消し飛ばした黒い閃光は、そのまま迷宮の壁を貫き――ルシアンの仕掛けた『光喰いの結界』そのものを、内側から完全に粉砕していた。
パァァァァァンッ!! という甲高い音とともに、偽りの暗闇がガラスのように砕け散る。
本来の迷宮の薄暗い光が、再び空間を満たした。
私は小さくため息をつき、ゆっくりと立ち上がった。
しかし、その瞬間。
「……あ」
グラリ、と。視界が激しく揺れた。
極限の飢餓状態から一転、かつてないほどの膨大なマナを解放した代償。無理やり広げられたマナの回路が悲鳴を上げ、私の華奢な身体に強烈な反動が襲いかかってきたのだ。
「シャルル!」
シラヌイが血まみれの身体を無理やり起こし、崩れ落ちそうになった私を抱きとめてくれた。
「……ぁ、……」
ふと、口の中に残る微かな『鉄の味』を思い出し、私は血の気が引くのを感じた。
自分が何をしたのか。
理性を取り戻した頭の中に、シラヌイの首筋を噛み切り、その命を貪り食った光景が鮮明にフラッシュバックする。
「……っ、う……、ぁ……っ」
ガタガタと、全身が震え始める。
あれほど嫌悪していた血。あれほど遠ざけていた「化け物」としての自分。
恩人であり、友でもあるシラヌイの血を、私は本能のままに欲し、奪った。その事実が、汚泥のような自己嫌悪となって私の胸を掻き毟る。
私は自分の両手を見つめ、嘔吐感をこらえて涙した。
「……シラ、ヌイ……っ。私、あなたに……取り返しのつかないことを……」
「何をおかしなことを。妾が勝手に差し出した血じゃ。お主に謝られる筋合いはないぞ」
「違うわ! 私は、化け物……っ。自分の飢えを抑えられずに、あなたを食べて……っ! こんなの、もう、まともな生き物じゃない……!」
涙が溢れ、地面に滴り落ちる。
華奢な肩を丸め、自分自身を抱きしめるようにして震える私。
その時、シラヌイが、私の背中にそっと腕を回した。
「……っ」
「いいか、シャルル。お主が『化け物』だと言うのなら、それを誘い出した妾も同罪じゃ」
シラヌイは、震える私の身体を、折れてしまいそうなほど強く、優しく抱きしめた。
豊かな胸の鼓動が、背中を通して直に伝わってくる。
「……怖かったんじゃろ。一人で暗闇に落ちて、飢えに焼かれて。……もういい。自分を責めるな」
「でも、私は……」
「お主一人が化け物になるのが嫌なら、その罪、妾が半分背負ってやる。……妾が望んで、お主に血を与えた。これからは、お主の血肉の一部として、妾が共に在る。……それでいいじゃろ?」
「……シラヌイ……っ、……ぅ、ぁぁ……っ」
その言葉に、私は堪えきれず、彼女の胸に顔を埋めて声を上げて泣いた。
自己嫌悪の闇を、彼女の温もりが溶かしていく。
「半分、背負ってくれる」。その言葉が、これほどまでに救いになるとは思わなかった。
「……ごめん、なさい。……疲れた、わ……」
「ばか者……っ。十分すぎるわ。……よくやったな、妾の可愛いお姫様」
シラヌイの安堵に満ちた声と、彼女の甘い香水の匂い。
それを最後に、私の意識は深い、深い闇の中へと沈んでいった。
* * *
同じ頃。
この世界の遥か上空。雲を突き抜け、星々に最も近い場所。
神族が住まう聖なる領域の頂点において、一人の存在が椅子から身を起こした。
「…………今のは、何だ」
神族の頂点に君臨する男は、眼下に広がる地上を、黄金の瞳で鋭く射抜いた。
ほんの一瞬。地上から、この聖域の均衡すら揺るがしかねない『異常なマナ』が噴出した。
それは神族の天力でも、魔族の魔力でもない。もっと古く、もっと根源的で――この世界からとうの昔に失われたはずの『原初』の波動。
「……吸血鬼の、系譜か? いえ、あれはもはや……」
男は冷ややかに、けれど隠しきれない警戒を込めて独りごちた。
「迷宮の底で眠っていた何かが、目覚めたというのか。……面白い。この停滞した世界に、ようやく『毒』が回るというわけか」
神の沈黙が破られ、世界が大きく動き出そうとしていた。
* * *
『――シャルルッ!!』
意識を手放した直後。
迷宮の天井が物理的に吹き飛び、そこから一直線に飛び込んできたのは、純白の羽を広げたシエルだった。
彼女の瞳からは、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちている。
「シャルル! シャルルっ!! あぁ、よかった……無事で……っ!」
シエルは私の身体に取り縋り、わんわんと子供のように泣きじゃくった。
その後ろからは、ノヴァが音もなく着地し、私のバイタルを瞬時に確認して安堵の瞬きを繰り返す。さらに少し遅れて、リゼが息を切らしながら駆けつけてくる気配がした。
だが、私の意識はすでに、現実の喧騒から遠く離れた『夢』の中を彷徨っていた。
【夢の中】
深い、深い霧の中だった。
視界には、ぼんやりとした『白』と『赤』の光が混ざり合って滲んでいる。
『――あとは頼……わよ、私たちの可愛いお姫様』
『泣かな……。私たちの力ごと、……生きて』
声はひどく遠くて、ノイズに掻き消されてうまく聞き取れない。
ただ、誰かの温かく優しい手が、私の頬に触れた気がした。
そして、無理やり口移しで温かい何かを飲まされた感覚と、舌にまとわりつく強烈な鉄の味(血の味)だけが、ひどく生々しく残っている。
相手の顔も分からない。
誰なのかも思い出せない。
それなのに、どうしてこんなにも、心が張り裂けそうなくらい悲しいのだろう。
「……っ、ぁ……」
ハッと息を呑んで目を覚ますと、視界が涙で滲んでいた。
(……なんで、私……泣いてるの……?)
ひどい動悸と、口の中に残る幻の血の味への激しい嫌悪感。夢の内容はもう思い出せないのに、胸を締め付けるような喪失感だけが消えない。
「……うなされておったぞ、シャルル」
ふわりと甘いお香の匂いがして、視界の端から誰かの指先が優しく私の涙を掬い取った。
見上げると、私はふかふかの絨毯の上で、手当てを受けたシラヌイの膝枕で寝かされていた。彼女のぼんやりとした赤い着物の色が、なぜか夢の中で見た『赤』の光と一瞬だけ重なる気がした。
「シャルル!? 気がついた!? 大丈夫!? 汗びっしょりじゃん……っ、ほら、アタシが温めてあげるから!」
反対側からは、顔を真っ赤に腫らしたシエルが、自慢の大きな純白の羽で私の身体をすっぽりと包み込むように抱きしめてきた。天使の羽の柔らかくて神聖な『白』が、私の視界を優しく覆っていく。
(……ああ。本当に、血の匂いは最低で最悪だわ。でも……)
夢の中で失ったはずの「何か」の欠落感を埋めるように。
今はこうして、二つの温もりが私を両側から包み込んでくれている。
ノヴァが静かに額の汗を拭い、リゼが温かいお茶の準備をしている気配がする。
私は、理由のわからない涙をシエルの羽でそっと拭いながら。
この騒がしくて、でもひどく心地よい気怠さの中で、もう一度ゆっくりと目を閉じた。




