深淵の底、妖狐の血と目覚める渇き
光喰いの結界石がもたらした絶対の暗闇。
それは単なる視覚の喪失ではなく、空間に存在するすべてのマナ、光、そして生命の息吹すらも強引に吸い尽くす、底なしの虚無だった。
「……っ、ぁ、……はぁ、っ……」
迷宮の正規ルートから完全に切り離された未踏階層の冷たい石の床の上で、私は一人、身をよじって苦しんでいた。
ノヴァたちの温もりはもうない。
私の体内でギリギリの均衡を保っていた三つの力――魔、天、妖のマナは、外部からの極端な枯渇状態に陥ったことで暴走を始め、互いを喰らい合うように激しく衝突している。
だが、それ以上に深刻な異常が、私の華奢な身体を内側から焼き焦がしていた。
(……あつい。……のどが、焼けるように、痛い……)
ギリギリ、と奥歯を噛み締める。
吸血鬼としての本能。これまで極限の省エネ生活と睡眠によって無理やり蓋をしてきた『血への渇望』が、この死の空間でついに限界を突破しようとしていたのだ。
身体中の血管が干からびていくような錯覚。細胞の一つ一つが、生きた熱と、濃厚なマナを宿した『紅い液体』を求めて狂ったように悲鳴を上げている。
「……あ、ぁぁ……っ」
かすれた声が暗闇に溶ける。
指先一本動かすカロリーすら残っていないはずなのに、私の中に眠る古くて巨大な『原初の飢え』が、理性の鎖を引きちぎって漏れ出し始めていた。
それは、世界そのものを捕食しようとするかのような、圧倒的で冒涜的なプレッシャー。学園の結界すら透過し、空気を震わせるほどの禍々しい波動となって、迷宮の底から立ち昇っていく。
その異常な『死の気配』と『原初の飢え』を、学園で優雅にお茶を飲んでいた大妖怪が、見逃すはずがなかった。
『――シャルルッ!!』
バァァァンッ!! という鼓膜を破るような爆音とともに、絶対の暗闇に一筋の亀裂が走った。
空間そのものが無理やり引き裂かれ、そこから鮮烈な赤い炎と、眩いほどの金色の光がなだれ込んでくる。
「……シラ、ヌイ……?」
霞む視界の中で、艶やかな九つの尾を逆立てた妖狐の姿が揺れた。
彼女は息を荒くし、普段の余裕に満ちた妖艶な笑みなど見る影もないほど、必死な形相で私を探していた。
朝、私の襟元を直した時に、彼女は『自身の尻尾の毛』を編み込んだ分身をこっそりと忍ばせていたのだ。私が結界石で分断され、絶対の孤立状態に陥った瞬間、その毛が燃え上がり、シラヌイに決定的な異常を伝達した。
さらには、私が漏れ出させた『原初の飢え』の波動と、かつて彼女自身が私の体内に流し込んだ『マナ調律のパス』。その三つを道標として逆探知し、天狗すら恐れる彼女の全妖力を注ぎ込んで、迷宮の次元の壁を物理的にぶち抜いて跳躍してきたのだ。
「シャルル! 無事か! 結界のせいでマナが完全に枯渇しておる……っ、今すぐ妾の力で引き上げて――」
シラヌイが私を抱き起こそうと手を伸ばした、その時だった。
『――ギュルルルルルルルゥゥゥッ!!』
暗闇の奥底から、地鳴りのような咆哮が響き渡った。
光喰いの結界によって集まった濃密な闇の瘴気を喰らい、狂暴化していた未踏階層の主。巨大な岩山のような体躯と、鋼鉄よりも硬い鱗を持つ『古代の巨大トカゲ』が、暗闇と同化するようにして背後に迫っていたのだ。
トカゲの丸太のような巨腕が、鋭い凶刃となって私たちを薙ぎ払おうと迫る。
「チッ……こんな底の底に、旧世界の遺物が生き残っておったか……!」
シラヌイは舌打ちをし、私を抱き上げたまま回避しようとした。
だが、できない。
この空間は結界石によってマナが吸い尽くされており、次元跳躍で妖力を大幅に消耗した今のシラヌイには、巨大トカゲの神速の一撃を完全に躱し切るだけの出力が残されていなかった。
さらに、飢えと疲労で完全に動けなくなっている私を抱えている以上、彼女の持ち味である敏捷性は完全に殺されている。
私が足手まといになっている。
それを悟ったシラヌイは、一瞬の躊躇いもなく――私を庇うように、その豊満な身体を盾にして背中を向けた。
「シラヌイ……っ、だめ……!」
ズガァァァァァンッ!!
肉が裂け、骨が軋む嫌な音が響いた。
古代トカゲの凶刃が、シラヌイの背中から肩口にかけてを深く、残酷にえぐり取ったのだ。
「……ッ、がぁっ……!!」
シラヌイの口から苦悶の喘ぎが漏れる。
彼女の美しい着物が無残に引き裂かれ、そこから、大量の鮮血が噴き出した。
ドクン、ドクンと、私の頬に、首筋に、生温かくて赤い液体が降り注ぐ。
シラヌイは痛みに顔を歪めながらも、私を抱きしめる腕の力だけは決して緩めず、残された妖狐の炎でトカゲの顔面を焼き払い、一時的に距離を取った。
「はぁっ……はぁっ……大丈夫じゃ、シャルル。……これしきの傷、大したことは……」
シラヌイは血を吐きながら、私に向かって強がりな笑みを浮かべようとした。
だが。
その『血』が、すべての引き金となってしまった。
(……あ、あぁ……)
私の頬を伝う、妖狐の血。
それは、過去に私が嫌悪して吐き捨てたような、泥臭くて汚い獣の血とはまるで違っていた。
何百年もの時を生き、極限まで練り上げられた、甘く、熱く、そして暴力的なまでに濃密なマナを宿した、極上の『触媒』。
「……あ、ぁ……血、が……」
プツン、と。
私の中で、最後に残っていた細い理性の糸が切れる音がした。
「シャルル……?」
私の異変に気づいたシラヌイが、心配そうに顔を覗き込んでくる。
次の瞬間、私は無意識のうちに、シラヌイの豊満な身体を冷たい石の床へと力強く押し倒していた。
スレンダーで華奢なはずの私の腕に、どこからそんな力が湧いたのか。マナが枯渇しているはずの私の瞳は、人間のものではない、血のように赤い獣の光を放っていた。
「シャルルっ!? お主、自我が……!」
シラヌイが驚いて身をよじろうとするが、馬乗りになった私の力は、大妖怪である彼女を完全に押さえ込んでいた。
限界まで飢餓状態に陥った吸血鬼の『原初の飢え』。それは、目の前にある極上の血の匂いに当てられ、完全に私という器のコントロールを奪い取っていたのだ。
「……ほしい。……あつい。……血を、ちょうだい……っ」
私は荒い息を吐きながら、シラヌイの傷ついた肩口に顔を埋め、こぼれ落ちる血を無我夢中で舐め取った。
甘い。熱い。喉の焼け付くような渇きが、その一滴で狂おしいほどの歓喜に震える。もっと、もっとだ。こんな表面の血だけでは足りない。もっと深い場所から、直接、その熱い命を飲み干したい。
私は獣のような瞳でシラヌイの顔を見下ろし、彼女の細く白い首筋へと牙を突き立てようとした。
シラヌイの妖力なら、私を吹き飛ばして逃げることはできたはずだ。
正気を失った私に反撃し、強引に気絶させることも。
だが、彼女はそれをしなかった。今の極限状態の私に力技で反撃すれば、私の華奢な器そのものが壊れてしまうと分かっていたからだ。
「……ばか者。お主は本当に、手のかかるお姫様じゃな」
シラヌイは抵抗するのをやめ、痛む体でゆっくりと腕を上げると、私を優しく、慈しむように抱きしめ返してきた。
血塗られた彼女の手が、私の背中をそっと撫でる。
(……あぁ。血の匂いなんて大嫌いなのに。どうしてこんなに……温かくて、泣きそうなほど悲しい気持ちになるんだろう)
私の中に流れ込んでくる、初めて感じる得体の知れない喪失感と、それらを包み込むような不思議な温もり。
シラヌイは自らの首筋を無防備に晒し、吐息混じりに私の耳元で囁いた。
「さぁ、遠慮はいらん。妾の血を、骨の髄まで飲み干すがいい」
彼女の豊満な胸の鼓動が、私の肌を通して直に伝わってくる。
「――妾の血で、正気に戻れ。シャルル」
その優しくも力強い声を聞いた瞬間。
私は一切の躊躇いを捨て、彼女の脈打つ首筋へと、深く、深く、その牙を突き立てたのだった。




