エリートの決断と、動き出す本物の悪意
放課後の大図書館。
私はいつものように人気のない最奥の席陣取り、机に突っ伏して浅い呼吸を繰り返していた。隣には、私のマナ消費を抑えるために室温や風向きを微調整してくれている専属メイドのノヴァが、彫像のように静かに控えている。
「……マスター。心拍数低下。順調な省エネ状態です」
「……ん。ありがと」
静寂の中、心地よい微睡みに落ちようとしたその時だった。
「……失礼しますわ、シャルルさん」
コツ、コツ、とヒールの音を響かせて現れたのは、サキュバス族のエリート・リゼだった。
タイトな制服のブラウスがはち切れんばかりの規格外の双丘を揺らし、彼女は私の対面の席にスッと腰を下ろした。その手には、これまで彼女が書き溜めていた分厚い『観察記録』のノートが握られている。
「……またあなたなの。今日はもう色仕掛けは勘弁してちょうだい。香水がキツくてマナが乱れるわ」
「ええ。もうあのような無駄な真似はいたしませんわ」
私が気怠げに顔を上げると、リゼは真剣な眼差しで私を真っ直ぐに見つめ返してきた。
眼鏡の奥の瞳には、以前のような探るような色はなく、ある種の『覚悟』のようなものが宿っている。
「わたくし、あなたのことをずっと観察し、分析してきました。……そして、ひとつの結論に達したのです」
リゼはノートを机に置き、ふぅ、と小さく息を吐いた。
「純銀と光を無効化する防御力。最高位の魔狼すら一瞥でひざまずかせる覇気。そして、このノヴァという旧世界の遺物を従える底知れぬ器。……あなたは、ただ怠惰に振る舞っているだけで、その本質は学園の誰よりも、いえ、教師たちすら凌駕する『規格外の化け物』ですわね」
「……何が言いたいの。面倒くさい話なら寝るわよ」
「単刀直入に申し上げます。わたくしを、あなたの『仲間』にしていただきたいのです」
リゼの言葉に、私はわずかに目を瞬かせた。
「サキュバスは本能的に、絶対的な強者と深淵なる知識に惹かれる種族。わたくしは、あなたという存在の側に立ち、その力を一番近くで見届けたい。……いえ、ただの知的好奇心ではありません。わたくしは、あなたに仕えるに足る有能な手駒になると約束しますわ」
そう言って、リゼはスッと背筋を伸ばし、自信に満ちた笑みを浮かべた。
「あなたは常にエネルギーの節約を気になさっていますね? わたくしを側に置けば、学園生活におけるあらゆる事務手続き、課題の代行、教師への言い訳作りなど、面倒な雑務のすべてを完璧に処理してみせますわ。さらには……あの騒がしい天使や、からかってくる妖狐の防波堤にもなりましょう。結果として、あなたの『睡眠時間』は劇的に増加するはずです」
「…………」
私は少しの間、沈黙した。
そして、隣に立つノヴァを見上げる。
「マスター。彼女の提案は極めて論理的です。学園内の事務処理と対人折衝を彼女にアウトソーシングすることで、マスターの精神的マナ消費を約30%削減できると算出。……私の物理的サポートと合わせれば、完璧な布陣かと」
ノヴァという物理的な『盾』に、リゼという事務的な『防波堤』。
確かに、無駄なカロリーを消費しまくっている今の私にとって、これほど効率的で甘美な提案はない。
「……分かったわ」
私は再び机に顔を埋めながら、小さく呟いた。
「採用よ。とりあえず、明日提出の術式学のレポート、よろしく頼むわね。あと、シエルが空から突っ込んできたら撃墜してちょうだい」
「ふふっ。お任せくださいな、わたくしの主」
リゼは嬉しそうに眼鏡を押し上げ、豊満な胸を反らした。
こうして、私の超省エネ生活を完璧にサポート(あるいは甘やかし)する、奇妙な仲間たちの陣容が固まったのだった。
* * *
しかし。表の学園でそんな賑やかで平穏な関係性が築かれていたその頃。
学園の地下深く、カビと冷気に包まれた旧校舎の隠し部屋では、純血吸血鬼のルシアンが憎悪に顔を歪め、壁を何度も殴りつけていた。
「クソッ……! クソッ!! クソォォォッ!!!」
殴るたびに拳から血が滲むが、彼の怒りは収まらない。
純銀のナイフも、疑似太陽光も、最高位の眷属である魔狼すらも……すべてが、あの薄汚い忌み子に通じなかった。それどころか、全校生徒の前で自分だけが無様な恥をかかされたのだ。
「なぜだ……! なぜあんな階位なしのゴミが、俺より上みたいな顔をしてやがる!!」
ギリギリと歯を食いしばる彼の背後から、不気味な笑い声が響いた。
「ヒヒッ……ご立腹のようですな、ルシアンお坊ちゃん」
暗闇から姿を現したのは、ローブ姿の闇商人だった。その手には、禍々しい紫色の光を放つ、ひとつの歪な石が握られている。
「……何の用だ。お前の持ってきた道具も、結局役に立たなかったじゃないか」
「それは、お坊ちゃんが『学園のルール』という甘い枠の中で、コソコソと嫌がらせ程度のことに使ったからですヨ」
闇商人はルシアンの横に立ち、耳元で甘く、冷たく囁いた。
「……来週、特級学園の全生徒が参加する『迷宮探索演習』がありますね。あそこは学園の結界の外。教師の目も届かず、強力な魔物が跋扈する危険地帯……。生徒の一人や二人、魔物に食われて『事故死』しても、誰も疑いません」
「……何を、言っている」
「ヒヒッ。この『光喰いの結界石』。これを使えば、一定空間の光とすべてのマナを完全に遮断し、対象を絶対の暗闇と飢餓状態に突き落とすことができます。……迷宮の奥深くで、あの小娘をこれに閉じ込めれば……あとは、這い寄る魔物たちが綺麗に掃除してくれますヨ」
闇商人は、ルシアンの瞳の奥にある『殺意』を引きずり出すように笑った。
嫌がらせではない。恥をかかせるだけでもない。これは、確実な『殺害』の提案だった。
「…………」
ルシアンは少しの間沈黙し、自身の血に濡れた拳を見つめた。
やがて、その濁った瞳に、引き返せないほどのどす黒い決意が宿る。
「……いいだろう。その石、俺によこせ」
ルシアンは結界石をひったくり、歪で残酷な笑みを浮かべた。
「迷宮の底の暗闇の中で、誰の助けも呼べず、絶望と恐怖に泣き叫びながら死ぬがいい。……絶対に許さんぞ、シャルル」
華奢な少女が仲間たちとまどろむ平穏な日常の裏側で。
シャルルの命を確実に奪うための、本物の悪意が静かに牙を研いでいた。




