懇願
どうすることが最善なのか理解している。
エステルは毛布にくるまりながら、ぼんやりと低い天井を見上げていた。
簡単なことだ。ティルに、もう二度とここに来るなと言ってやればいい。そうしてすぐに誓約の魔術で言葉を縛り、歌姫を捜しに行かせてもらえばいいのだ。家族や使用人とてなりそこないには冷たくても、同じ人間ならば耳を傾けてくれるはず。
毛布をかき抱くようにして、体の震えを抑える。
今日はいつもよりずっと寒い。
吐いた溜息が白く染まっていた。
マニが去ってからティルが来るまで、孤独だった時間はそう長くないように思える。それでもまたあの日々に戻るのかと思うと息苦しくなった。
誰と話すこともなく、ただ長い時間をじっと一人で過ごす。ひどく苦痛な時間だ。
だけれど、あの短くも幸福な時間を手放すほかに、エステルがティルのために出来ることはなかった。
この狭い世界から出ることの許されない自分は、彼にとって枷でしかない。あれだけ自分に優しかった少年を、苦しめているのは他でもない自分なのだ。
マニもこんな気持ちだったのだろうか。
エステルは自分のこの境遇を、マニのせいだと糾弾した。
だが、そこにマニの悪意がないことは解っていた。
ティルを苦しめたかったわけじゃない。気づけて良かったのだと思う。
知ることが楽しかった。だが、今はそれと同じくらい無知であることが恐ろしい。知ることをしなければ、大切な存在を気づかないまま苦しめ続けていたかもしれないのだ。
地下牢はこんなにも狭かっただろうか。
天井はこんなにも低かっただろうか。
空とは、どれほど高いんだろうか。
海とは、どれほど広いんだろうか。
もっとティルの話を沢山聞きたかった。そうしてつかの間、外の世界を感じていたかった。もっと名前を呼んで貰いたかった。あの屈託のない笑顔を見ていたかった。もっともっと彼のことが知りたかった。
だけど、全部今日までにする。
今日までに、しなければならない。
本当はそれだけでは足らない。与えられたものは沢山あるのだ。
だというのに、何一つ返せない。
自分の無力さを噛みしめる。この手には何もない。
マニが自分にしてくれたように、望むことがあればなんでも言えと、彼に笑いかけられればよかったのに。
エステルの体が小さく震える。
寒さだけではなく、噛みしめられた唇から堪えきれずに嗚咽が零れた。
「――マニ」
小さな小さな、今にも消えてしまいそうなほどに、ささやかな声だった。
堪えかねたように、縋るかのように、震える声で呟いた。
無力感に捉えられ、孤独に押しつぶされそうで。
ただ苦しくて、名前を呼んだ。
それに応えたのは、物理的な圧迫感だった。
文字通り押しつぶされそうな重みを感じて、エステルは毛布にくるまったまま「うぐっ」と小さく呻く。なにか大きなモノにのし掛かられているが、頭まで毛布にくるまっていたエステルにはその大きなモノが見えない。
見えないが、よく知っていた。
よく知っていたが、すぐに理解は出来なかった。
「名前を呼んだだろう」
その声も、エステルはよく知っていた。
ふわりと体を抱き起こされ、くるまっていた毛布を剥かれる。ようやく顔を出せたエステルの目の前に、険しい表情をしたマニが膝をついていた。
見たこともないような強ばった顔に、エステルは思わず身を固くした。
怒っているのか。いや、怒られても仕方がない。過程はどうであれ、あれだけ酷いことを言っておきながら、身勝手な理由でまた彼に縋ろうとしたのだ。
目を合わせられずにいるエステルの肩に、マニの指が食い込む。痛いという訴えすら喉にひっかかり、息を吐くことすらためらわれた。
「呼んだ、だろう?」
だが、次に降ってきたのは悲痛な声だった。
「呼んでくれたんだよな?」
今にも泣いてしまうんじゃないかと思うような震えた声。
エステルが顔をあげると同時に、体を強く抱き寄せられる。
「呼んだと言ってくれ」
抱きしめる力とは裏腹な、弱々しい懇願。
エステルはゆっくり息を吐くと、腕を回せないかわりにそっと胸元へ頬を寄せた。体中から染み込んでくるような温もりがひどく懐かしく感じる。
「マニ」
もう一度名前を呼ぶ。ああ、と掠れた声がそれに応じた。
あれだけ胸中に巣くっていた不安が、ただそれだけの事で溶かされて消える。
「すまない……すまない、エステル」
ほたり。
肩に冷たい雫が落ちた。
お前のためならなんだってする。お前の望みはなんだって叶えてみせる。それは以前にも言われていた言葉だったはずなのに、以前よりも切実に響いた。
「傍にいさせてくれ」
マニが自分になにを求めているのか、エステルにはずっと解らなかった。
魔術師エルマーの魂を持っているという、ただそれだけの事がマニにとっては大事なのだと漠然と意識していたにすぎない。
だからエステルはエルマーを知らなければならないと思っていた。
自分がエルマーではないことに焦燥すら感じていた。
だが、すがりつくような今のマニを見て、思い直す。
「初めて名前を呼んでくれたな」
自分にとってマニが全てであったように。
マニもまた、自分しかいないのだと。