旅立ちの日
封印を望んだのは、最後の悪あがきのようなものだった。
死という絶対的な終わりでもなく、かといって彼らに不安の種を植えることもない。だが、完全にエステルという存在が消えることもない。
その唯一の選択に思えたのだ。
白昼堂々、エステルは牢獄を抜け出した。決して自分の意思では出られないと思っていた鉄扉はマニによってあっさりと解錠され、屋敷内にいた使用人や家族は、みなマニの術によって一時的に眠らされている。
エステルはぐるりと屋敷を見て回った後、最後に父親の書斎を訪ねた。
何か書き物をしていたのだろう、羽ペンを握りしめたまま書斎の机に突っ伏す父の髪に、そっと触れてみる。
結局、彼はエステルの知る限りでは、ただの一度もエステルに言葉を投げかけることはしなかった。目を覚ませば、彼はもうエステルの存在を思い出すこともないだろう。
「父様」
小さな声で呼びかけてみる。目を覚まして欲しくはない。それでも、呼びかけずにはいられなかった。
投げ出された手は大きく、骨張っていた。そろりと手の甲に手を重ねる。少しかさついた手は温かく、それだけで泣いてしまいそうだった。
ただ一度で良い。
こちらを見て、名前を呼んで、この手で触れて貰いたかった。
だけど、その望みはもう二度と叶わない。
だから最後にそっと握りしめて、ゆっくりと手を離す。
「今日より私は、スターレットの名をここに置いていきます。だからどうか、ただのエステルとして生きることをお許し下さい」
決して届かぬ別れの言葉。
貴方に愛されたかったとは、口に出来なかった。
その日、スターレット家からエステルの存在が消えた。まどろみから目覚めたとき、ぽかりと抜け落ちた意識の空白。しかし、誰もそれを不思議に思うことはなかった。
「マニ、これはどうしたんだ?」
屋敷の庭陰で差し出された靴と真新しい水色のエプロンドレスに身を包み、その場でエステルはくるりと回って見せた。綺麗だ、よく似合っていると賞賛を浴びせられるのは悪い気はしないが、どこからこんなものを手に入れてきたのだろう。
「物質界で俺が干渉できる材質はとても限られているから、手に入れるのに随分苦労した」
「忙しくしてたのはコレのためか?」
「ああ、魔力の編み込まれた特殊繊維で織られている魔術師のためのドレスだ。靴も同様のモノを用意した。サイズはあっているだろう?」
「うん、ピッタリだ。どうやってこんなものを?」
「君の姉が近々学園寮に入ることになっていたんだが、その前準備として用意されていた欲しいモノのリストの中にそっと一文書き加えた後、届いた現物くすねておいた」
「くすね……」
ぽかんと口をあけたままのエステルに、どうせドレスは沢山あるのだから気付きはしないだろうとマニはあっけらかんと笑って見せた。
ずいぶんと大胆なことをしたものだ。ちゃんと書き加えられていたリストは処分したというから中々に悪党である。心の中で姉に一言謝罪をして、それでもエステルはありがたく新しいドレスと初めての靴を素直に頂いて行くことにした。
デザインはあの牢獄で着ていたモノと大差ない。だが、触り心地は天と地ほどの差がある。きっと高価なモノだろう。
靴も素晴らしい。履いているだけでちっとも足が痛くない。
マニに姿を隠してもらい、そろりと門兵の横をすり抜ける。
少し小高い土地に建てられているらしい屋敷から出ると、ウィザンドラの街が一望できた。ゆるやかな下り坂が続き、大きな通りへと繋がっている。
心臓が煩いほど鳴っていた。見たこともない景色に目が眩み、足がすくむ。
「エステル」
「……ああ」
名前を呼ばれ、そっと背中を押される。一歩、また一歩。転んでしまわないように足を踏み出す。
この道はどこまで続いているんだろう。
この空はどこまで広がっているんだろう。
あの大きな建物はなんだろう。あの川は海というものに繋がっているんだろうか。
慌しく走っていく馬車や、初めて見る馬に悲鳴をあげそうになる。この辺りはあまり徒歩で移動する人は少なく、それでもたまに人とすれ違うたびとてつもない緊張感に見舞われた。
結局、数百メートルも歩かないうちにエステルは遊歩道に設置された小さなベンチに腰をおろすことになった。
「つ……疲れた」
長い距離を歩いたことのないエステルの足は、既に悲鳴をあげ始めている。だが、それ以上に気疲れがひどい。知らない人や生き物の気配が傍にあるだけでこんなにも緊張するなんて、エステルには初めての経験だった。
ゆっくりと空を見上げる。日が眩しくて、思わず目を細めた。
綺麗な青だ。自分の着ているエプロンドレスより少し深い色をしている。髪を揺らす風の冷たさが心地よい。
かいだことのない空気が周囲に満ちている。
「大丈夫か、エステル」
「ああ」
改めてウィザンドラを眺め、それから一度だけ生家を振り返る。立派な門の向こうにそびえるレンガ作りの大きな屋敷。あの屋敷の中のほんの小さな地下牢が、さっきまでの自分の全てだった。
道行く人は誰もエステルの存在を知らない。
時折視線を向けられるが、そこにはなりそこないを見るようなあの冷たさは感じられなかった。
それが分かったので、エステルはもう一度立ち上がる。
「エステル。まずは一座を訪ねるんだな?」
「そうだ」
「ならこっちだ」
そう言って先導するマニは確かにそこにいるのに、誰もマニの存在に気付かない。人の居る場所ではうかつに名前を呼ぶことも出来ないが、マニはエステルが疲れて足を止めると、ちゃんとそこで待っていてくれる。
当たり前のことだったが、なんだかとても不思議な心地だった。
この世界で自分だけが、彼の存在を知っている。
「まだ歩くのか」
小さな声で呟く。
「まだまだ歩くな」
笑いを押し殺したようなマニの声が返ってきた。そっとマニが膝を撫でると、震えていた膝が少しだけ楽になる。
ありがとうという言葉は人の気配に遮られたが、マニには伝わったようで、さらりと髪を撫でられた。
きっと人の目には、柔らかな金糸が風になびいたように映っただろう。
やがて、遠目に色鮮やかな布で出来た建物が見えた。あれが一座の興行用テントだ、と言われてエステルは思わず足の疲れも忘れて駆け寄る。テントの周りには自分と同じ年頃の子供達が、沢山集まっていた。
やたらと派手な化粧をした風変わりな格好の男が、無言でエステルになにかを差し出してくる。渡されるままに受け取った紙には色とりどりの装飾が施されていて、何が書いてあるのかは分からなかったが、見るだけで心が躍った。
「今日はこのドーン一座の最終公演をやるそうだ」
「最終公演?」
「ええ、今日が最終日。明日は丸々一日片付けで、明後日には出立の予定なの」
ふいに背後から響いた少女の声に、エステルは思わず手にしていたチラシを握りしめた。
おずおずと振り返ると、若草色の柔らかいすぐ傍で揺れていて、息を呑む。
「……ティル」
「それは兄。私はティアラっていうの……そういう貴方はお姫様?」
「え?」
瞳孔の細い猫のような瞳を大きく見開いて、少女がまじまじとエステルの顔を覗き込んでくる。
その顔はあの日からついぞ再会の叶わなかった、ティルとうり二つだった。




