望み
二日ほど眠っていた。
目を覚ましたとき、マニはそうエステルに話しかけた。
エステルは毛布にくるまりながらマニの腕の中にいた。マニはこうしてエステルが目を覚ますまで、ずっと隣に寝そべり、くるまった毛布ごと抱え込んでいたらしい。
あの気怠い感覚はなくなっていたが、頭がぼんやりする。相変わらず渇きや飢えの感覚はないが、体が妙に固まっている。うんと体を伸ばすと気持ちが良かった。
「……ティルは?」
「あれから来ていない」
わかりきっていたことだが、マニの返事にエステルは肩を落とした。おそらく歌姫を助けに行ったに違いない。閉ざされた鉄の扉を見つめながら、エステルはマニにもたれ掛かる。
マニはどこか険しい表情でエステルを見下ろしていた。
どうした? と問うと、視線が逸らされる。
「どうしてそんな悲しそうな顔をするんだエステル」
マニの抱きしめる腕の力が強くなる。最近のマニは力加減が出来ていない気がする。苦しいと訴えて腕を軽く叩くと、肩に額を押しつけられた。
腕の力は緩まないので、エステルは諦めてマニに身を委ねた。
「マニ。ティルは歌姫と会えただろうか。私は、彼の役に立てただろうか」
「もう来ない人間のことを、どうしてそこまで気にかける」
「ティルは私に優しくしてくれた」
マニは何か言いたげな様子でエステルを見つめていたが、やがてぽつりと言葉を紡ぐ。
「……彼らの顛末を知ることが出来れば、エステルは嬉しいか?」
その言葉に、エステルは目を見開いた。
「知りたい」
素直に頷くと、そっと腕の拘束が解かれた。
マニの体がすっと鉄扉の向こうへ消える。それがひどく羨ましかった。マニはどこへ行くのも自由だ。壁も扉も、マニにとってはなんら障害に成り得ない。
しかし、ほんの僅かな時間マニと共に過ごした精神界の景色を思い出す。
不思議な空間だった。
マニと自分以外の存在がやけにおぼろげで、世界は無限に広がっている筈なのに、ひどく小さく閉鎖的に見えた。ただの空気がとても濃くて、霧がかかっているかのようだ。
マニは産まれたときからずっと、あんな景色の中にいたのだろうか。
冷たい地下牢の天井を見上げながら考える。
どこまでも続く色付いた濃霧とゼリー状の壁。限りなく薄い生き物の気配。
その中で、独り過ごすこと。
それは、この閉ざされた狭い世界にいるよりよほど、孤独なことかも知れない。
エルマーの傍に居たという他の精霊たちはどこへ行ってしまったのだろう。少なくとも、エステルの見たあの景色の中に、マニのような存在はいなかった。
エステルの知っている精霊はマニだけだ。マニは精霊という存在については色々と話して聞かせてくれたが、自分以外の精霊について多くを語ろうとしなかった。
エルマーの一番の精霊。
エルマーと出会うためだけに、彼の死後、数百年の時をただひたすらに待ち続けた精霊。
外は危険なのだとマニは言う。
ここはとても狭い世界だが、エステルの存在を知るのは使用人と家族だけで、彼らはエステルにどれだけ冷たくあたっていてもエステルの命を奪おうとはしない。
――ずっとふたりでいよう。ここなら誰も俺からエルマーを奪えない。
誰が彼からエルマーを奪ったのだろう。
どうしてエルマーは彼を孤独にしてしまったのだろう。
思いを馳せていると、寝転がるエステルの顔をいつのまにかマニが見下ろしていた。
「エステル」
「ティルは……?」
「彼は間もなくこの屋敷を出る。歌姫は無事、一座に帰れたようだ」
目を閉じる。
瞼の奥が熱い。よかった、と心から思う。よかった。彼の優しさに報いることが出来た。彼の力になれたのだ。
「嬉しくないのか、エステル。どうして泣く?」
「嬉しい。嬉しいんだ、マニ」
嬉しくて、胸がつまる。
ティルは笑っているだろうか。あの屈託のない笑顔を浮かべて、歌姫との再会を喜んでくれているだろうか。これからも大切な仲間と、家族と、世界中を旅して回るのだろうか。
どこまでも続く空の下を、歩んで行くのだろうか。
いくつもの海を越えて、まだ見ぬ地をその足で踏みしめるのだろうか。
たくさんの人を笑顔にしながら。
「マニ、私は……」
外へ行きたい。
世界をこの目で見てみたい。
もう一度ティルと話がしたい。
そんな望みを、エステルはしかし寸前で呑み込んだ。
ずっとふたりでいよう。
マニはそう望んだ。エステルの傍にいて、ただひたすらエステルの望みを聞き、ただひたすら彼女の疑問に答え続けてきたマニが、唯一口にした願い。
自分のこの望みは、マニのそんな願いを真っ向から否定する。
困惑するようなマニの顔を、ゆらぐ視界の中で見つめた。
心の中が矛盾ばかりで、ひどく息苦しい。
良いではないかと囁く自分がいる。自分から全てを奪ったのだから、それくらいのワガママを言ったって構わないじゃないか。この大精霊は自分から奪った分だけ、全てを捧げるべきなんだと。
だけど、マニの願いを叶えたいとも思う。マニは望んでエステルから全てを奪ったわけじゃない。契約者であったエルマー・スターレットの魂に寄り添い、その記憶すら失われた今でも、ただ彼の一番の精霊であろうとしているだけなのだ。
自分を抱きしめる腕がひどく重い枷のようで、そこから逃げ出したいと思うのに。
それを失いたくないと願う自分もいる。
「望んでくれ、エステル」
エステルの心の中を見透かしたように、マニはそう告げた。
笑顔はない。エステルが何を望み、何を求めているのか、きっとマニは気付いているのだろう。その上で、やはりマニはエステルに望めという。
「望んでくれ、マニ」
だからエステルまったく同じ言葉をマニに返した。
もしもマニがエステルに、これからもこの小さな牢獄の中で二人きりで生きていこうと望んだなら、この胸に巣くう外への渇望を諦められる気がした。
諦めても良いと思った。
マニは驚いたような顔でエステルを見つめていた。
エステルは黙ってマニの言葉を待っていた。
やがて、マニは絞り出すような声でエステルに告げた。
「誰にもエステルを渡したくない」
「……ああ」
「エステルと、これからもずっと一緒にいたい」
「ああ」
「エステルにとって、俺が唯一絶対であってほしい」
「そうか」
「エステルを傷つけたくない、もう、失いたくない」
「うん」
「エステルに笑ってもらいたい」
「うん」
「教えてくれエステル」
「なんだ?」
「エステルの望みが知りたい。エルマーは……エルマーは沢山のことを俺に命じてくれたけれど、俺はエルマーの望みを叶えることが出来なかった」
「そうか」
「今度こそ、叶えたい」
「それもエルマーの命令か?」
「俺の望みだ」
今にも泣き出してしまいそうなマニの体に手を伸ばす。
エステルの小さな体では、この大きな精霊を抱きしめてやることが出来ない。それでも、精一杯腕を伸ばしてその体に触れた。いつも彼がエステルをそうしているように、きついほど力を込める。抱きしめるというよりはしがみついているようだが構わない。
マニに抱きしめたいというこの気持ちが伝われば、それでよかった。
「私の願いが何か分かるか?」
「家族からの愛だ」
「ああ」
「あの少年との時間だ」
「ああ」
「広い、広い世界だ」
「そうだな、でも……お前の望みを叶えたい」
それも私の望みだ。
そう告げると、マニの体が小さく震えた。
「エルマーは一度だって、そんなことは言わなかった」
「私はエルマーじゃない」
「そうか」
「そうだ」
「……そうか」
それっきり、マニは何も言わなくなった。
ただ、身体を抱きしめる腕は相変わらず窮屈でひどく息苦しく、それでもエステルは安堵していた。
どれくらい、そうしていただろう。
「ウィザンドラの雪が溶けたら」
マニはそう言って、エステルの前に懐かしいものをかかげて見せた。
あの日二人で口づけた誓約の紋様。
ひとたび交わせば決して破ることの出来ない誓い。エステルはそれによってマニの存在を口外できなくなったが、マニはこれによってエステルには絶対嘘がつけなくなった。
「新しい誓いをたてよう」
そう言って、マニはそっとエステルの髪を撫で、額に唇を落とした。




