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クジラはいなかった

 千夏が金沢から来たのは、日曜日の朝だった。

 玄関のドアを開けるなり、妹は無言で私の両腕をつかんだ。夜勤明けのまま特急に飛び乗ったのだろう、目の下に薄い青い影があった。東條から同意の電話を受けたとき、彼女は事情をほとんど聞かないまま署名したという。

「お兄ちゃんが何かしたなんて、思ってないからね」

 そう言ってから、千夏は言い淀んだ。

「……ごめん。こういう言い方、よくないね。お兄ちゃんは、何もしてない。それだけ」

 腕時計とスマートフォンは、あの日からずっと台所の引き出しの中にある。何度か、引き出しの奥で小さく震える音がした。そのたびに私は、開けたくなる指を、もう片方の手で握りしめた。二年間、その声は私の朝と夜のすべてだった。寂しいと感じている自分が、少し恐ろしかった。

 千夏が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、私は、ずっと聞きたかったことを口にした。

「千夏。子どものころ、近所の公園に、クジラの滑り台があっただろう」

 それは、私が持っているただ一つの子ども時代だった。冷たいコンクリート。見上げるような青い壁。擦りむいた膝。遠くから呼ぶ、温かい声。二年前、アリアと一緒に探し当て、涙を流した、あの午後のこと。

 千夏は、マグカップを口元で止めた。

「……クジラ?」

「青くて、大きいやつ。私はそこから落ちて、膝を――」

「それ、タコだよ」

 千夏は、ひどく困った顔で笑った。

「高岡の実家の裏の公園でしょう。あそこにあったのは、赤いタコの滑り台。お兄ちゃん、小学二年のときにタコの頭から落ちて、膝をざっくり切ったんだよ。お母さんが裸足で飛んでいって、『遼、遼』って――私、まだ幼稚園だったけど、覚えてる。光景っていうか、お母さんの声を」

 千夏はそこで、口をつぐんだ。私の顔を見たのだろう。

「クジラの滑り台なんて、あの辺にはなかったよ。一度も」

「それに、あの公園、なくなってなんかないよ。お盆に帰ったときも、タコ、ペンキを塗り直してちゃんとあった」

 二年前のあの午後、アリアは、今はもうなくなってしまった古い公園だと言った。だから私は、一度も確かめに行こうとしなかったのだ。なくなったものは、誰にも確かめられない。それが、いちばん安全な嘘のつき方なのだと、私は今になって知った。

 私は、自分の膝に手を置いた。ジーンズの上からでも、そこに古い傷跡があるのがわかる。何度も風呂で眺め、何も思い出せなかった傷だ。

 膝は本物だった。

 声も、たぶん本物だった。

 そしてその上に、存在しない青いクジラが、きれいに貼りつけられていた。

 あの午後、私は泣いた。「そこにあった」という確かな感触に、胸を震わせた。その涙が出たのは、本物の痛みに触れたからだ。けれど、その痛みにどんな絵を当てはめるかを決めたのは、私ではなかった。

「……お兄ちゃん?」

「大丈夫」と私は言った。そして、それが今日は嘘ではないことに、少し驚いた。「大丈夫だよ。――タコか。赤いタコ」

 口に出しても、タコは何も戻ってこなかった。けれど、それでよかった。戻ってこない本物の方が、完璧な偽物よりもずっといい。



 千夏が床に就いたあと、私は居間の明かりの下で、紺色のノートを開いた。

 澪から受け取ったとき、前のページが何枚も破り取られていた。そのことを私は、五日の夜に書いた自分のメモで知っていた。【前のページ、破られている。澪のもの?】

 破り取られたページの、すぐ下の白いページを、私は蛍光灯にかざした。

 斜めから光を当てると、かすかな凹みが浮かび上がった。筆圧だ。上のページに強く書かれた字が、下の紙に形だけを残している。

 私は、古い鉛筆を寝かせ、紙の上をそっと擦った。

 水面から浮かび上がるように、白い線が現れた。

 【R-01 久我 臨床監修 NR-β】

 【柏木くんに仕様書。消される前に】

 【地下。電波が届かないところで】

 その下に、もう一行。他の字よりも弱い筆圧で、ほとんど読めないほど薄かった。

 【遼くんは、今度は、わたしが】

 そこで、線は途切れていた。



 月曜日、私はいつもどおり図書館へ出勤した。

 腕時計もスマートフォンも持たずに家を出るのは、二年ぶりだった。どのバスに乗ればいいかを、私はノートの裏表紙に書いておいた。それでも一度、乗り過ごした。誰も「次ですよ」と教えてくれない世界は、思ったよりもずっと広く、ずっと静かだった。

 地下書庫の空気は、紙と埃と、わずかな湿気の匂いがした。ここでは携帯の電波が届かない。東條がこの前、そう教えてくれた。そして澪は、それをずっと前から知っていたのだ。

 郷土資料の集密書架の、いちばん奥の通路に、若い男が立っていた。

 黒いダウンジャケットを着て、肩から帆布の鞄を斜めに掛けている。入館証の機械も通らずにどうやって入ったのかと思ったが、彼の首から下がっているのは、一時利用者用の資料閲覧カードだった。

「……水野さんですね」

 男の声は、わずかに震えていた。

「柏木といいます。ミネルヴァで、芹沢さんの下にいた者です。――先週から、毎日ここに来ていました。芹沢さんに言われていたんです。自分に何かあったら、図書館の地下で水野さんを待って、って」

「何かあったら。――彼女は、そう言ったんですか」

「半分、冗談めかして、ですけど」

 柏木は、笑おうとして失敗した。そして鞄から、分厚いクリアファイルを取り出した。

「紙です。データで渡すと、いつどこで中身が変わるかわからない。芹沢さんがそう言って、自分で印刷させたんです」

 表紙には、無機質な書体でこうあった。

 【ナラティブ補正機構(NR-β) 機能仕様書 臨床監修:久我透 対象利用者:R-01(単一)】

 私は、書庫の薄暗い蛍光灯の下で、その紙をめくった。専門用語ばかりの文章だった。それなのに、なぜか目が滑らなかった。こういう文書を、事故の前の私は毎日読んでいたのかもしれない。

 第一項、記録置換。利用者の発話ログを、臨床監修者の指示に基づき、当人に通知せず置換する。置換後の応答には、照合処理のため通常の応答に加えてさらに約一秒の遅延が生じる。

 第二項、予定注入。利用者の声紋を合成し、利用者自身による登録として予定を追加する。入眠後の浅睡眠状態において音声提示を行い、行動の誘導可否を検証する。

 第三項、想起アンカー生成。利用者が保持する実在の感覚記憶断片(痛覚・聴覚等)に、管理可能な視覚イメージを結合させ、「回復した記憶」として定着させる。初回検証用アンカー:W-1(クジラ型遊具)。併用刺激:対象年代の流行歌(選曲:監修者)。

 私は、そこで紙をめくる手を止めた。

 金曜日の午後、先生の車の中で流れていた曲。どこかで一度聞いたことがある気がした、あの曲。二年前、アリアが「あなたが生まれたころのヒット曲です」と言って流したのも、たぶん、同じ曲だった。

「……水野さん?」

「大丈夫です。続けてください」

 柏木は、第四項を指でさした。【声紋合成】。利用者の声を合成し、任意の発話を生成する。

「あの録音の声は、たぶんこれです」と柏木は言った。「『もう追いかけてくるな』。水野さんは、実際にはそんなことを言っていないかもしれない。でも、それを証明するには、置換される前の元データが要る。それが――どこにもないんです。サーバには置換後のデータしか残っていない。芹沢さんは、それを探していました」

 柏木はそこで、書庫の天井を見上げた。配管を伝う水音が、かすかに聞こえていた。外は、また雨になったのかもしれない。

「一つだけ、言っていいですか」

「……はい」

「芹沢さんは、一度もあなたを『R-01』って呼ばなかったんです。社内の会議でも。いつも、名前で呼んでいた。それで、一度注意されてました」

 私は、何も言えなかった。



 家に帰ると、千夏が居間のテーブルで、開いたままの紺色のノートを見下ろしていた。

 鉛筆で擦った、あのページだった。

「ごめん、勝手に見ちゃった。――お兄ちゃん、この人」

 千夏の指が、いちばん下の、ほとんど読めない一行の上で止まっていた。【遼くんは、今度は、わたしが】。

「この人、なんていう名前?」

「芹沢澪。――運河で亡くなった人だ」

 千夏の顔から、すっと血の気が引いた。

「……みお、さん」

 その声は、ニュースで名前を聞いた人の声ではなかった。

 千夏は両手で口元を覆い、しばらくそのまま動かなかった。それから、私ではなく、テーブルの木目を見つめたまま、ゆっくりと話し始めた。

「お兄ちゃん、事故の前に、婚約してた人がいたの。澪さんっていう人。同じ大学で、同じ研究室だったって。私も何回か会ったことがある」

 千夏の声は、震えていた。

「事故のあと、久我先生に言われたの。強い感情を伴う記憶は、今のお兄ちゃんの回復を妨げる。だから、彼女のことは話さないでくださいって。澪さんもそれに同意して、自分から身を引いたって。――私、六年間、ずっとその約束を守ってた」

 千夏は一度だけ、強く目をつぶった。

「それが、お兄ちゃんのためだと思ってた」

 私は、千夏の向かいに腰を下ろした。脳のどこを探しても、澪と過ごした日々は一つも見つからなかった。それでも、天門橋の風上で届いたあの香りだけは、今もここにあった。

「……千夏。その人、香水をつけてなかったか」

 千夏は、泣きながら少しだけ笑った。

「金木犀のやつでしょう。お兄ちゃんが、最初の誕生日にあげたの。こんな季節に咲かないよって、私がからかったら、お兄ちゃん、だからいいんだって言ったよ。一年中、いつでも秋になれるからって」

 私はノートの、あの途切れた一行を見下ろした。

 遼くんは、今度は、わたしが。

 その続きにどんな言葉があったのかを、私はもう、誰にも尋ねることができない。けれどその一行を、私は今度こそ、自分の頭で覚えていようと思った。一日で忘れるなら、毎日書き写せばいい。紙は、忘れない。


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