証拠としての記憶
富山中央警察署の小さな部屋には、窓が一つだけあった。磨りガラスの向こうで、晴れた午前の光がぼんやりと白く溶けている。
「任意ですからね。いつでもお帰りになれます」
東條という刑事は、紙コップの緑茶を私の前に置きながら言った。横には、宮下と名乗った若い刑事がノートパソコンを開いている。その画面に、見覚えのある整然とした時系列が映っているのが、斜めからでもわかった。
「ミネルヴァ社から、今朝六時半に任意で提出がありましてね」と東條は言った。「あなたの昨夜の位置情報と、音声の記録です。通報が五時四十分。その五十分後には、もうこちらに届いていた。――ずいぶんと、手回しのいい会社だ」
最後の一言は、私に向けたものではないように聞こえた。
「昨夜のことを、覚えている範囲で話してもらえますか」
私は話した。十時半にノートを書いたこと。おやすみを言ったこと。そこから先は、手すりの冷たさと、水の匂いと、雨の音しかないこと。「来ちゃだめ」という声のことは、言えなかった。それが誰の声で、いつの声なのか、私には証明できない。
東條は途中で口を挟まなかった。話し終えると、しばらく紙コップの縁を指でなぞってから、言った。
「水野さん。『覚えていない』というのは、あなたにとっては事実なんでしょう。それは疑っていない。ただ――」
彼は言葉を選ぶように、一拍置いた。
「私たちの仕事では、『覚えていない』と『言いたくない』は、紙の上では同じ形をしているんですよ」
反論のしようがなかった。私は湯気の立たなくなった緑茶を見つめた。
「芹沢さんの携帯を調べました」と宮下が言った。画面をこちらに向ける。「昨夜二十二時四十分。あなたのアカウントから、こういうメッセージが届いています」
【今から会えないか。運河の橋で。大事な話がある】
私は、その短い文字列を何度も読んだ。私が書きそうな文章だった。それが、いちばん恐ろしかった。
「芹沢さんはこれに『わかった、すぐ行く』と返信しています。その三十分後に、あなたも彼女も、同じ橋の上にいた」
私は、コートの内ポケットに手を入れた。
紺色のノートを出すべきかどうか、私は家を出るときからずっと迷っていた。ここには、私に不利な一行がある。けれど、これを隠したら、私は自分の手で自分の記録を「補正」することになる。それだけは、したくなかった。
「これを、見てください」
東條はノートを受け取り、最初のページからゆっくりとめくった。三ページ分の、短い日付と短い文。最後の乱れた一行で、彼の指が止まった。
「『澪が呼んでいる』」
東條はその一行を声に出して読んだ。
「あなたは、彼女に呼ばれたと書いている。でも彼女の携帯には、あなたが彼女を呼び出した記録がある。――妙な話だ。二人とも、相手に呼ばれたつもりで橋に行ったことになる」
「……あるいは、私が嘘を書いたか」
「あるいはね」
東條はそう言って、ノートを閉じた。そして、それを私の方へ戻した。
「だが、嘘を書く人間は、嘘を書いたノートを自分から刑事には渡しませんよ」
正午を回ったころ、ドアがノックされた。
「――主治医の久我です。一報を受けて、飛んできました」
久我先生は息を切らしていた。線の細い知的な顔に、心底からの心配が浮かんでいる。彼は私の肩に手を置いて「大丈夫ですか」と言い、それから東條に向き直って、一通の封筒を差し出した。
「医学的な意見書です。水野さんは六年前の外傷性脳損傷により、重度の逆向性健忘と、進行性の前向性健忘を抱えています。特にストレス下では「作話」――つまり、本人に悪意のない偽の記憶が生じやすい。彼の証言をそのまま採用することは、彼自身にとっても不利益になります」
先生の声は穏やかで、理路整然としていた。それは私を守るための言葉のはずだった。この人はいつも、私を守るために話してきたのだから。
けれどその言葉が重ねられるたびに、私は自分の輪郭が、部屋の白い光に溶けていくような気がした。私の言葉は、この部屋で、もう証拠として数えられない。数えられるのは、アリアの記録だけだ。
東條は意見書を受け取り、「拝見します」とだけ言った。
帰りは、先生の車で送ってもらった。
死因はまだ調べている最中だという。後頭部に傷があり、転落のときにぶつけたものか、その前に誰かに殴られたものか。「またお話を伺うことになります」と、東條は別れ際に言った。それが何を意味するかは、記憶障害の私にもわかった。
富山駅前の交差点で信号を待ちながら、先生はハンドルに両手を乗せたまま、前を見て言った。
「水野さん。しばらく、病院で次の検査を受けてみませんか。一週間ほど。外の騒がしいことから、少し距離を置いた方がいい」
「……入院、ですか」
「保護ですよ。あなたを守るための」
信号が青に変わった。車が動き出し、先生は一度だけこちらを見た。金縁の眼鏡の奥で、目尻の皺が優しく寄った。
「若い女性が亡くなって、あなたはその場にいたかもしれない。そんなことを、一人で抱えて生きる必要はありません。辛いことは、忘れていいんですよ」
私は、窓の外を流れていく街並みを見ていた。どの建物にも、触れることのできる思い出はなかった。
忘れていい。その言葉は、二年前の私なら、救いとして聞こえただろう。
「……考えさせてください」
「もちろんです」
先生は穏やかに頷いた。そして、カーナビの音量をわずかに上げた。流れていたのは、九十年代の終わりごろのヒット曲だった。どこかで、一度聞いたことがある気がした。いつ、どこでだったかは、思い出せなかった。
東條がもう一度訪ねてきたのは、翌日の土曜日だった。今度は一人だった。
玄関先に立った彼は、あいさつよりも先に、私の左手首に目を落とした。
「少し、外を歩きませんか。――それと、電子機器は置いてきてもらえると助かる」
私は腕時計の留め金に指をかけた。それを外した瞬間に何が記録されるかは、わかっていた。心拍の途切れた時刻。その直前に聞こえた、刑事の声。
もう、いいと思った。
二年ぶりに脱いだ腕時計は、拍子抜けするほど軽かった。手首には、白い帯のような日焼け跡が残っていた。私はそれをスマートフォンと一緒に台所の引き出しに入れ、閉めた。
松川沿いの桑並木は、すっかり葉を落としていた。東條はコートのポケットに両手を入れたまま、しばらく黙って歩いていた。
「気象台に問い合わせましてね」
やがて、彼は言った。
「十一月七日から八日にかけての夜、富山市内の降水量はゼロです。一滴も降っていない。運河沿いの防犯カメラの映像も、路面は乾いていた」
私は立ち止まった。
「でも、あの録音には――」
「そう。ひどい雨の音が入っている」
東條は、枝だけになった桑の木を見上げた。
「私はこの仕事を二十年やっています。その間に、証拠というものの中身は、人の証言から指紋になり、DNAになり、防犯カメラになり、いまはこういう『ライフログ』になった。機械の記録は、嘘をつかない。私もそう教わってきたし、そう信じてきた」
「……はい」
「だが、あの録音は完璧すぎる。位置も、時刻も、声も、物音も。全部が、あなたを橋の上に立たせるために並んでいる。人間のやったことの記録というのは、本当はもっと散らかっているもんなんですよ」
彼はそこで、初めて私をまっすぐに見た。
「記録が嘘をつかないのなら、嘘をついているのは記録を作った人間の方だ。――水野さん、あなたの記録で、他におかしなところはありませんでしたか」
私は話した。
トマトのパスタのこと。千夏の端末からも消えていた写真のこと。「操作者:本人(指紋認証済み)」という、あの一行のこと。澪が見せてくれた二枚の紙と、図書館の本に挟まれていた最後の請求票のこと。「ナラティブ補正」という、やさしい名前の機能のこと。
話しながら、何度も言葉に詰まった。日付も順序も、もう曖昧になり始めていた。そのたびに私はコートの内ポケットから紺色のノートを出し、自分の字を確かめた。東條はそれを待ち、続きを促した。急かさなかった。
全部話し終えると、東條は短く息を吐いた。
「妹さんの同意がもらえれば、メッセージアプリの運営会社に照会をかけられます。その写真がいつ、どこから消されたのか。あなたの指が消したのなら、あなたの端末からの操作として残っているはずだ」
「もし、そうじゃなかったら」
「そのときは、あなたの記録に、あなた以外の指が触れているということです」
彼はそれから、いくらかばつが悪そうに付け加えた。
「――昨日の時点で、上はもうあなたを参考人としては見ていません。記録がそろいすぎている。たぶん、そう長くは待ってくれない」
東條から電話があったのは、翌日の夜だった。
公衆電話からかけるようにと、私はあらかじめ頼んであった。それを私が覚えていたわけではない。ノートに「十一月十日、二十時、富山駅南口」と書いてあったのだ。
「二つ、わかりました」
受話器の向こうで、東條の声は低かった。
「一つ。写真は、あなたの端末からは消されていません。消された時刻、あなたの端末は書庫の地下で圏外だった。削除の要求は、外部のサーバから、あなたの認証情報を使って送られていた。そのサーバは、ミネルヴァ社のものです」
私は、公衆電話のガラスに額を寄せた。冷たかった。
あの写真は、本当にあったのだ。トマトのパスタも。私の舌の奥に残っていた、あの酸味も。
「もう一つは」
「……音声です。あの雨の音を、科捜研に回して波形を照合してもらった」
東條は、そこで一度言葉を切った。受話器の向こうで、紙をめくる音がした。
「六年前の六月十二日。国道8号、射水市内。あなたが事故を起こした日に、あなたの車のドライブレコーダーが録音していた音声です。収めたのは、うちの交通課です」
音が、全部消えたような気がした。
「一致しました。雨の音も、ワイパーの周期も。あの夜の録音は、六年前のあなたの事故の音に、あなたの声を重ねて作られている」
六年前の、あの激しい雨。私が「記録として」だけ知っている、あの日の音。
「水野さん。あの事故の音声データを持っている人間は、そう多くない。警察と、保険会社と――あとは、事故後のあなたの治療に関わって、その資料を取り寄せた人間くらいです」
電話を切ってからも、私はしばらく、受話器を掛けた手を放せなかった。
家に帰り、台所の引き出しを開けずに、私は冷蔵庫の前に立った。
扉には、マグネットで留めた一枚の紙がある。右上がりの、私の字。けれど、そこに書かれているのは、私の言葉ではなかった。
【覚えていられないなら、外に預ければいい】
六年前、この言葉を私にくれた人の顔を、私はアリアに頼らずに思い出せる。六年間ずっと、私の主治医だった人の顔を。




