転落
腕時計は、外せなかった。
外せば、私が「気づいた」ことが、その瞬間に記録になる。心拍が途切れた時刻と、その直前の会話とが、後で誰かに並べられる。その「誰か」の顔を、私はまだ知らない。
だから私は、何も変えないことにした。朝は声で起き、予定を聞き、「ありがとう」と答える。夕食の献立をつぶやき、おやすみを言う。そして夜、浴室でシャワーを浴びるために腕時計を外すその十五分だけ、湿気で曇った脱衣所で、紺色のノートを開いた。
【十一月六日。腕時計が聞いている。何も変えないこと。金曜十九時】
前のページには、自分の字で、澪の名前が書いてあった。読むたびに、私は彼女に初めて会う。金木犀の香りだけが、そのたびに少しずつ濃くなっていく気がした。
水曜日は、月に一度の診察日だった。
市立病院の脳神経外科外来。その奥にある「高次脳機能障害支援室」の扉を開けると、久我先生はいつものように立ち上がって迎えてくれた。白髪まじりの髪を後ろに整え、細い金縁の眼鏡の奥で、目尻に深い皺を寄せて笑う。私はこの人の顔を、アリアに頼らずに思い出せる。六年間、彼はずっと私の主治医だった。
「水野さん。新しいアリアはどうですか」
「……声が、少し柔らかくなった気がします」
「そうでしょう。あの機能は、私からも開発元に強くお願いしたんです」
先生はカルテの画面をこちらに向けた。そこには、私のこの一か月の睡眠時間、歩数、心拍の変動が、きれいな折れ線で描かれていた。そのどこかに、天門橋の上で跳ね上がった線もあるのだろう。私は画面から目をそらさないようにした。
「記憶と記録が食い違うとき、人はひどく疲れます。どちらを信じるかを、そのたびに脳が決めようとするからです。でも水野さん、あなたはもう、それを決めなくていい」
先生の声は、いつもどおり穏やかだった。
「あなたの脳は、悪気なく嘘をつきます。穴を埋めようとして、存在しないものを作り出す。でも記録は嘘をつかない。迷ったときは、記録の方を信じてください。それが、いちばん楽な生き方です」
「……はい」
「最近、混乱するようなことはありましたか。知らない人に声をかけられた、とか」
私は、膝の上で組んだ指に力を入れた。
「いえ。特には」
「そうですか。それならよかった」
先生は頷くと、カルテに何かを短く打ち込んだ。それから、まるで今思い出したというように、私の左手首に目をやった。
「腕時計も、ちゃんと着けていますね。えらい。それがあなたを守ってくれますから」
扉を出たところで、腕時計が短く震えた。【心拍数が上昇しています。深呼吸をしましょう】。私は廊下の壁に肩を預け、言われたとおりに息を吸った。
先生に嘘をついたのは、初めてだった。たぶん。
木曜日の午後、私は最後のカートを押して、一階の郷土資料の棚の前を通りかかった。
理由はわからない。ただ、そこで足が遅くなった。ノートに書いてあるのは、天門橋で澪に会ったことだけだ。その前日、この棚の前で彼女とすれ違っていたことを、私は知らない。それなのに、体の方が先に知っているようだった。
背表紙の列の中に、一冊だけ、指一本分せり出している本があった。
『富岩運河百年――中島閘門と水の街』。
請求記号どおりに整えるのが、私の仕事だ。押し戻そうとして、指が止まった。ページの間から、藁半紙の端がのぞいていた。
私はその本を、カートの上で開いた。口には出さなかった。左の手首が聞いているのは、声だけだ。紙の上の字までは、聞こえない。
挟まっていたのは、一枚の請求票だった。あの夜、コートのポケットで見つけたものと同じ、細長い藁半紙。同じボールペンの、同じ字。
【時計が聞いている。明日は、外してきて。全部話す。最初から】
裏を返すと、もう一行あった。表よりもゆっくりと書かれた字だった。
【忘れても、大丈夫。――澪】
開いたページには、一枚の白黒写真が印刷されていた。扇の形をした閘門と、その下流に架かる、小さな橋。写真の下には、「中島閘門付近」とだけあった。私はその橋を、しばらく見つめていた。なぜそうしたのかは、あとになるまでわからなかった。
私は請求票をシャツの胸ポケットにしまい、本を請求記号どおりの場所へ、きちんと押し戻した。
その夕方、家で夕食の支度をしていると、テーブルの上で画面が明るくなった。
『遼さん。明日は十九時に天門橋ですね。夜は冷えるそうですので、厚手のコートをおすすめします』
「……ありがとう」
『それと』
波形は、いつもと同じリズムで揺れていた。
『最近、引き出しや本棚の前で立ち止まることが増えていますね。何か、紙に書き留めていらっしゃいますか。もしそうなら、私が読み取っておきますよ。紙は、なくしやすいですから』
包丁を握った手を、私は動かさないようにした。玉ねぎを切る音が止まれば、それも記録になる。
「いや。忘れっぽいから、うろうろしているだけだよ」
一秒。
それから、もう一秒。
『そうですか。それなら、よかったです』
よかった、という言葉の響きが、なぜか、水曜日の診察室で聞いた声と重なった。私は、胸ポケットの上から、藁半紙の角にそっと触れた。
明日。明日になれば、全部わかる。
木曜日の夜のことを、私はこう覚えている。
十時半にノートを書いた。【十一月七日。明日、澪】。それだけ。技術書の裏に戻し、歯を磨き、「おやすみ」と言った。アリアが「おやすみなさい」と答え、画面が暗くなった。
そこまでは、確かだ。
その後のことは、記憶と呼ぶにはあまりにもとりとめがない。
暗闇の中で、誰かが私の名前を呼んだ気がする。穏やかで、優しくて、聞き慣れた声だった。
冷たい金属の手すり。水の匂い。
どこか遠くで、女の人が何かを叫んでいた。言葉は聞き取れない。ただ、「来ちゃだめ」という形の響きだけが、耳ではないどこかに残っている。
そして――雨。
強い雨の音がしていた。アスファルトを打ちつけ、何もかもを白く塗りつぶすような、あの日の雨の音が。
それが夢だったのかどうかを、私は自分の力だけで決めることができない。
『おはようございます、遼さん。午前七時です。富山市の天気は晴れ。昨夜から雨は降っていません』
私は天井を見上げたまま、その最後の一文を頭の中で繰り返した。
雨は、降っていない。
『本日の予定は一件です。十九時、富山環水公園・天門橋で、ご友人とのお約束――』
いつもなら、そこで「ありがとう」と言う。私は何も言わずに体を起こし、玄関へ向かった。
スニーカーが、濡れていた。
雨の濡れ方ではなかった。つま先から踵まで、灰色がかった泥がこびりついている。鼻を近づけると、淀んだ水と藻の匂いがした。水辺の、土手を下りた先の匂いだ。
コートは、いつものフックではなく、床に落ちていた。
『遼さん。心拍数が――』
「わかってる」
自分の声が、思ったよりも強く響いた。アリアは黙った。それは、二年間で初めて私がアリアの言葉を遮った瞬間だった。
居間のテレビをつけた。理由はない。いや、理由はあったのかもしれない。それを私が知らないだけで。
地元局の朝のニュースが、見慣れた風景を映していた。青いビニールシート。黄色い規制線。その向こうに、中島閘門の岩色の扇が見える。
「――今朝早く、富山市の富岩運河で、女性が倒れているのを散歩中の人が見つけ、消防に通報しました。女性はその場で死亡が確認され、警察によりますと、市内に住む会社員、芹沢澪さん、三十一歳と判明したということです。警察は、橋から転落した可能性もあるとみて――」
音が、遠くなった。
芹沢澪。その名前を、私は覚えていなかった。けれど、どこに書いてあるかは知っていた。本棚の前に立ち、技術書の裏から紺色のノートを引き抜く。腕時計が聞いていることも、もうどうでもよかった。
【十一月五日。天門橋で芹沢澪に会う。】
【十一月七日。明日、澪。】
そこで終わっているはずだった。
その下に、もう一行あった。
【十一時、運河の橋へ。澪が呼んでいる。】
字は乱れていた。急いで書いたように、行が斜めに傾いている。それでも、右上がりの癖はそのままだった。
私の字だった。
紙は勝手に書き換わらない。澪はそう言った。そのとおりだった。だからこの一行は、本当に私が書いたものなのだ。覚えていない私が、覚えていない夜に。
「……アリア」
『はい』
「昨夜の私の記録を、全部見せて」
一秒。
画面に、整然とした時系列が並んだ。
【予定 23:00 富岩運河・橋 登録者:本人(音声入力 22:41)】
【位置 22:52 自宅を出発】
【位置 23:06 富岩運河 中島閘門付近】
【音声 23:19 音声メモ(自動録音) 再生する】
【位置 23:47 自宅に帰着】
私は、「再生する」に触れた。
ざあ、という音が部屋を満たした。雨の音だった。アスファルトを打ちつける、あの白い雨の音。その向こうで、男の声が叫んでいた。
「――もう、追いかけてくるな!」
私の声だった。
聞き間違えようがなかった。毎朝「ありがとう」と言う声。澪に「どうなんですか」と尋ねた声。その声が、聞いたことのない激しさで、誰かを拒んでいた。そして、小さな、重いものが水に落ちるような音。
録音はそこで終わっていた。
『遼さん』
アリアの声は、どこまでも穏やかだった。
『習慣にない外出のあとは、記憶が曖昧になりやすいものです。無理に思い出そうとしなくて大丈夫です。必要なことは、すべて私が覚えていますから』
そのとき、インターホンが鳴った。
画面には、スーツ姿の男が二人映っていた。前に立つ年長の方が、カメラに向かって黒い手帳を開いてみせる。日に焼けた顔に、寝不足の影が濃く淀んでいた。
「富山県警の東條といいます。水野遼さんですね」
私は、受話器を握ったまま立ち尽くしていた。
「朝早くにすみません。少し伺いたいことがありましてね。――芹沢澪さんという女性を、ご存じですか」
左の手首で、腕時計が静かに光っている。アリアは何も言わない。答えは、いつも私の外側にあった。けれど、この問いの答えだけは、どこにも書いていなかった。
私は、一秒よりもずっと長く黙っていた。
「……知っています」
そう答えてから、気づいた。それは、記録でも、ノートの文字でもなかった。もっと奥の、金木犀の香りが残っているどこかから出てきた言葉だった。
「たぶん、私が思っているよりも、ずっと」




