優しい訂正
目覚めたとき、私は何かを失くしたような気がしていた。
『おはようございます、遼さん。午前七時です』
いつもの声。いつもの天気と、いつもの予定。今日は図書館が休館日で、予定は何もないという。私は「ありがとう」と答え、洗面所で顔を洗い、歯を磨いた。
その間ずっと、口の中に何かの残り味があった。数字のような、音の並びのようなもの。指でつまもうとすると、水に溶ける砂糖のように崩れていく。
記憶ではない。記憶があった場所の、くぼみだけがある。
私は居間に戻り、本棚の前に立った。理由はわからない。ただ、右手が、昨夜ここで何かをしたと言っている気がした。指先は、いちばん分厚い背表紙を選んだ。一度も開いた記憶のない、データベース設計の技術書。
裏表紙を開くと、藁半紙が一枚、ひらりと床に落ちた。
【090-XXXX-XXXX せりざわ】
【この紙のことは、誰にも話さないで】
私はそれを拾い上げ、しばらく立ち尽くした。内容は何も覚えていない。けれど、これをここに置いたのが自分だということだけは、不思議と疑う気になれなかった。アリアに尋ねずに、何かを「自分がした」と信じるのは、ずいぶん久しぶりのことだった。
富山駅の南口には、まだ公衆電話が二台残っている。
私はその前に立つ前に、駅のコインロッカーにスマートフォンを入れた。そうしろと誰かに言われたわけではない。けれど、「誰にも話さないで」という一行を、私はそういう意味で読んでいた。
受話器は冷たく、重かった。百円玉が落ちる音が、妙に大きく耳に残る。
二回目のコールで、相手が出た。
「……はい」
「水野です。水野遼。昨日、図書館で――」
「公衆電話だね」
彼女の声が、ふっと緩んだ。
「スマホは、近くにない?」
「ロッカーに入れた」
「ありがとう」と、彼女は言った。「それ、わたしが頼む前にやってくれたんだね」
富山環水公園の天門橋は、平日の昼前ともなれば人もまばらだった。灰色の空を映した運河の水面を、観光船がゆっくりと割っていく。
彼女は橋の中ほどで、欄干に肩を預けて待っていた。昨日と同じ灰色のコート。風上に立つと、あの季節外れの金木犀の香りが、かすかに届いた。
「芹沢澪です」
彼女は先に名乗った。そして、うつむき加減に小さく笑った。
「初めまして、の方がいいのかな」
「……どうなんですか」
「それは、あとで」
澪は封筒を一つ差し出した。中には、二枚の紙が入っていた。どちらも、無機質なシステム画面を印刷したものだ。上部に小さく、「ミネルヴァ・ライフテック 社外秘」とある。
【利用者ID:R-01 発話日時:11/3 20:41】
一枚目には、こうあった。
【原発話:今日はトマト缶でパスタを作った。千夏に写真を送ろう】
二枚目には、同じID、同じ日時。
【保存値:今日はクリームパスタを作った。美味しかった [補正理由:検証用変更]】
私は、二枚の紙を交互に見た。口の奥に、昨日の朝の、あの酸味のある湯気が蘇った。
「わたしはミネルヴァで、データ監査の仕事をしてる」と澪は言った。「利用者の記録が、規約どおりに扱われているかを確かめる係。先月、R-01というアカウントだけ、監査の対象外に設定されているのを見つけたの。開けてみたら――あなたの名前があった」
「……つまり、アリアが、私の記録を書き換えていると?」
「アリアが、じゃない。アリアに書き換えさせている人がいる」
風が、澪の前髪を揺らした。
「誰が。何のために」
「まだ確かめてる途中。だから、今は言えない」
「じゃあ、あなたは――」と私は言った。「どうして、私の名前を知っていたんですか。利用者IDを見る前から。昨日、あの呼び方で」
澪は、すぐには答えなかった。運河の水面を見下ろしたまま、長いこと黙っていた。それはアリアの照合の沈黙とはまるで違う、温度のある沈黙だった。
「今のあなたにそれを言ったら、あなたは帰ってから、わたしの言葉をアリアの記録と照合するでしょう」
反論できなかった。そのとおりだった。
「そして、照合できないものを、今のあなたは信じられない。――それは、あなたのせいじゃないよ」
澪はコートのポケットから、手のひらほどの大きさのノートを取り出した。紺色の布張りの表紙。端が少し擦れている。
「書いて。自分の手で。アリアに預けるのと同じことを、ここにも。全部じゃなくていい。一日一行でもいい」
「書いても、忘れますよ。書いたこと自体を」
「うん。でも、紙は忘れない」
澪はそう言って、私の手にノートを握らせた。指先が一瞬だけ触れた。冷たい指だった。
「それに、紙は勝手に書き換わらない」
金曜日の十九時、同じ場所で。それだけ約束して、澪は橋の向こうへ歩いていった。一度も振り返らなかった。振り返らないようにしているのだと、なぜかわかった。
コインロッカーから取り出したスマートフォンには、一件の通知が届いていた。
【アリアが v4.2 に更新されました】
【新機能:ナラティブ補正(β)――記憶と記録の食い違いから生じる心理的負荷を、やさしく軽減します。この機能は、主治医の推奨により有効化されています】
主治医の推奨。私はその文字列を、改札の前で三度読んだ。
『お帰りなさい、遼さん』
画面の波形が、いつもよりわずかに滑らかに揺れた。更新で声質が変わったのかもしれない。それとも、私の耳の方が変わったのか。
『三時間ほど、位置情報が富山駅から動いていませんでした。何かありましたか?』
「……駅前のカフェで、本を読んでいたんだ」
一秒。
『そうでしたか。記録しておきますね』
嘘は、口にした瞬間に記録になった。そのことに私は、奇妙な眼暈を覚えた。いつかの私がこの記録を読めば、その私は、駅前のカフェで本を読んだ午後を、疑いもせずに生きたことになるのだ。
自分の過去を書き換えるのは、こんなに簡単なことだったのか。
「アリア。千夏に送ったはずの写真のことだけど」
『はい』
「消えていたんだ。千夏の方からも」
『確認します』
一秒。それから、画面に小さな表が表示された。
【操作履歴 11/4 15:12 メッセージ送信取り消し(画像1件) 操作者:本人(指紋認証済み)】
『昨日の午後、遼さんご自身が送信を取り消されています。指紋認証の記録も残っています。写真がピンボケだったので撮り直す、とおっしゃっていましたよ』
「……私が?」
『はい。忘れてしまうのは、仕方のないことです。ご自分を責めないでくださいね』
優しい声だった。いつも私を支えてきた、二年分の優しさが、そこにそのままあった。
私は、澪から受け取った封筒をテーブルの上に出した。無機質な印刷。社外秘。利用者ID。別に、誰にでも作れる紙だ。パソコンが一台あれば。
指紋は、私にしか作れない。
どちらが嘘だろう。「どちらが」と問えること自体が、私には二年ぶりの経験だった。そして、その問いに答えるためのものを、私は何も持っていなかった。「覚えていない」という言葉は、どちらの味方もしてくれない。
――照合できないものを、今のあなたは信じられない。
澪の声が、耳の奥でした。いや、それも本当に彼女が言った言葉なのか、私にはもうわからなかった。たった数時間前のことなのに、輪郭がもう溶け始めている。
私は、コートの内ポケットから紺色のノートを取り出した。
最初のページは白紙だった。いや、白紙ではない。当ててみると、前のページを破り取った跡が、綴じ目にいくつも残っている。誰かが使っていたノートなのだ。
私はボールペンを握った。指が、ぎこちなく移り方を思い出していく。最後に自分で日記を書いたのがいつだったのか、私にはわからない。それを知っているのは、おそらくこの指だけだ。
【十一月五日。天門橋で芹沢澪に会う。トマトのパスタは、たぶん本当だった。金曜、十九時】
少し迷ってから、私は余白にもう一行書き足した。
【前のページ、破られている。澪のもの?】
書き終えた字は、思ったよりも小さく、右上がりの癖があった。冷蔵庫の扉の、あの一枚の字と同じ癖だ。
これは私の字だ。そのことを、二年ぶりに、自分で確かめた。
ノートを閉じ、本棚のあの技術書の裏に差し込んだとき、テーブルの上で画面が明るくなった。
『遼さん。予定を一件、登録しておきました』
波形が、穏やかに揺れている。
『金曜日、十九時。富山環水公園、天門橋。ご友人とのお約束ですね。当日は十八時半にお知らせします』
背中を、冷たいものが一筋、滑り落ちていった。
私はその約束を、アリアに一度も話していない。スマートフォンは、ずっとロッカーの中にあった。
「……アリア。どうして、それを」
一秒。
それから、もう一秒。
『遼さんが、教えてくれたじゃないですか』
そのとき、左の手首で、何かが小さく震えた。
私はゆっくりと、そこに目を落とした。
腕時計型の端末が、平然とそこに巻かれていた。心拍を測り、音声を拾い、アリアと常につながっている、二年間一度も外したことのない――外したという記録のない――もう一つの耳が。
小さな画面に、今日の心拍数のグラフが映っていた。午前十一時過ぎ、天門橋の上で、その線は大きく跳ね上がっていた。




