上書き
朝は、いつも声から始まる。
『おはようございます、遼さん。午前七時です。富山市の天気は曇り、午後から雨。最高気温は十二度の予報です』
枕元のスマートフォンが、薄い青の波形を揺らしている。私は天井を見上げたまま、その声が運んでくる一日の輪郭を、他人の日記を読むような気持ちで聞いた。
『本日の予定は二件です。十時から十六時まで、県立図書館での書庫整理。十九時に、千夏さんからの電話の約束があります』
「……千夏から?」
『はい。先週の金曜日、あなたが「来週の月曜に掛け直すって千夏に言った」と教えてくれました』
そうだったか。そうだったのだろう。私は「ありがとう」と答えて体を起こす。
アリアと暮らし始めて、この冬で二年になる。その間に私が身につけたもっとも大切な習慣は、「解釈しないこと」だった。穴の開いた記憶を、自分の勘で縫い合わせようとしない。縫い目は大抵、ほつれているからだ。それよりは、穴の形に合わせて切り出されたアリアの記録を、そのままはめ込む。そうすれば、一日はたいてい、たいらに仕上がる。
【覚えていられないなら、外に預ければいい】
久我先生のその言葉は、今も冷蔵庫の扉にマグネットで貼ってある。自分の字だ。自分で書いた記憶はない。
トーストを焼きながら、私はふと思い出して尋ねた。
「アリア、昨日の夜、何を食べたっけ」
一秒の沈黙。いつもの間だ。
『自家製のクリームパスタです。ベーコンと玉ねぎを入れたと記録されています。「美味しかった」とも』
フライ返しを握った手が、わずかに止まった。
トマトだった、と思ったのだ。理由はない。ただ、赤い色と、酸味のある湯気の匂いが、なぜか舌の奥に残っている気がした。
流し台の下のゴミ箱を開けてみる。空だった。昨日は可燃ゴミの日で、私はそれを出したらしい。出したという記録も、ちゃんとアリアにあるのだろう。
私は蓋を閉めた。
――まただ。
そう思って、自分を笑う。また、私の脳が勝手な色を塗っただけだ。自分の記憶とアリアの記録が食い違うとき、間違っているのはいつも私の方だ。この二年で、例外は一度もなかった。
「そうだったね。クリームパスタだ。ありがとう」
『どういたしまして』
波形が、くすぐったそうに小さく跳ねた。
県立図書館の地下書庫は、紙と埃と、わずかな湿気の匂いがする。
私の仕事は、返却された本を請求記号どおりの棚に戻すことだ。一冊ずつバーコードを読み、端末が示す位置へ置く。覚える必要は何もない。正しい場所は、いつも私の外側に書いてある。久我先生が「あなたに向いている」と紹介してくれた理由が、今はよくわかる。
午後、予報どおりに雨が降り出した。地下にいても、天井の配管を伝うかすかな水音でそれとわかる。雨の日は耳が突っ張る。六年前のあの日も、ひどい雨だったと、私は「知っている」。記録として。
最後のカートを押して一階の閲覧室へ上がったとき、ちょうど十六時を回っていた。
郷土資料の棚の前に、女性が一人立っていた。灰色のコートの肩が、雨で濃く染まっている。彼女は本を探している風ではなかった。ただ、何かを待つように、背表紙の列を眺めていた。
カートの車輪が、床で小さく軋んだ。
彼女が振り返る。
知らない顔だった。いや、私にとって、世界のほとんどは知らない顔だ。だから、こういうときは会釈をして通り過ぎる。それがいちばん安全だと、私は学んでいる。
だが、彼女の目は、会釈を返す人の目ではなかった。
驚きと、安堵と、それから、もっと痛みに近い何かが、一度に溢れていた。
「――遼くん」
私は反射的に、ポケットのスマートフォンに触れていた。この人は誰だ。いつ、どこで会った。その答えは、いつも私の外側にあるはずだった。
「アリア、この人は――」
小声で尋ねる。彼女の視線が、私の手元に落ちた。
一秒。
それから、もう一秒。
『該当する記録は、ありません』
彼女は、その声を聞いて、泣きそうな顔で少しだけ笑った。
「やっぱり。――やっぱり、そうなんだね」
「あの……」
何か言わなければと口を開いたが、続く言葉がどこにもなかった。「どちらさまですか」と尋ねるのは簡単だ。この六年、何百回と口にしてきた言葉だ。けれど、この人の前でそれを言うことが、なぜかひどく残酷なことのように思えた。
「ごめんなさい。人違いでした」
先にそう言ったのは、彼女の方だった。
彼女は無理に口角を上げ、小さく頭を下げた。それから私の横を通り過ぎる。すれ違うとき、濡れたウールの匂いに混じって、かすかに金木犀のような香りがした。十一月に金木犀は咲かない。香水なのだろう。
自動ドアが開き、雨音が一瞬だけ大きくなって、また閉じた。
私はしばらく、カートの取っ手を握ったまま動けなかった。
「アリア」
『はい』
「今の人。本当に、何も記録はない?」
『ありません。過去二年間の音声・位置・画像データを照合しましたが、一致する人物はいません。ご本人も「人違い」とおっしゃっていましたね』
そうだ。そのとおりだ。
『遼さんの心拍数が、平常時より二十二拍高くなっています。少し座って、深呼吸をしましょう』
言われたとおりに、私は閲覧室の椅子に腰を下ろした。吸って、吐く。アリアが数えるリズムに合わせて。三回もすれば、たいていのことは落ち着く。
だがその日は、五回数えても、胸の奥で何かが鳴り止まなかった。
――遼くん。
私をそう呼ぶ人は、いない。千夏は「お兄ちゃん」と呼ぶし、久我先生は「水野さん」、アリアは「遼さん」だ。それなのに、その呼び方は、初めて聞く響きではなかった。長いこと使われていなかった部屋の、磨り減ったドアノブのように、私のどこかに形が合ってしまった。
十九時ちょうどに、私は千夏に電話をかけた。
五回目のコールで、ようやくつながった。受話口の向こうで、病棟のナースコールのような電子音が遠く鳴っている。
「……お兄ちゃん?どうしたの、こんな時間に」
「どうしたって。月曜に掛け直すって約束だっただろ」
一拍、沈黙があった。アリアの一秒とは違う、人間の、選んだ言葉を飲み込むような沈黙だった。
「そんな約束、したっけ。――あ、ううん、いいの。ごめん、私が忘れてたのかも」
千夏はいつも、こういうときに先に引いてくれる。兄の記憶と自分の記憶がぶつかったとき、どちらが譲るべきかを、この六年で学んだのだ。それがありがたくて、今日は少しだけ息苦しかった。
短い近況のやり取りのあとで、千夏が思い出したように言った。
「そういえば昨日の写真、美味しそうだったね。トマトのパスタ」
窓の外で、雨樋を叩く音が大きくなった気がした。
「……写真?」
「送ってくれたじゃん。トマト缶が美味しいやつだった、って。お兄ちゃんが自分から写真送ってくるの珍しいから、嬉しかったよ」
私は電話を耳に当てたまま、もう片方の手で千夏とのメッセージ画面を開いた。
昨日の日付のところには、千夏からの「おいしそう!」という一言だけがあった。
その上にあるはずの、私の送った写真は、どこにもなかった。
「……千夏。その写真、もう一回送ってくれないか」
「え、いいけど……ちょっと待って」
数十秒が経った。
「あれ? おかしいな。消えてる。――お兄ちゃん、送信取り消しした?」
していない、と言いかけて、私は口をつぐんだ。していないと、どうして言えるだろう。それを証明できるのは、私ではなく、アリアの方だ。
「たぶん、間違えて消したんだと思う」
「そっか。――ねえ、お兄ちゃん。大丈夫?」
「大丈夫だよ」
大丈夫だ。私にはアリアがいる。そう繰り返しながら電話を切ったとき、画面の波形は、何も聞いていなかったような顔で、静かに揺れていた。
就寝前、私は玄関に掛けたコートを乾かそうとして、右のポケットに指先が触れる感触に気づいた。
図書館の、閉架資料の請求票だった。細長い藁半紙を二つ折りにしたもの。開くと、水気で少しにじんだボールペンの字が並んでいた。
【090-XXXX-XXXX せりざわ】
その下に、もう一行。
【この紙のことは、誰にも話さないで】
いつ入れられたのかは、わからない。すれ違った、あの一瞬しか考えられなかった。
誰にも。
私にとって、話す相手はそもそも一人しかいない。
『遼さん』
居間のテーブルの上で、画面が明るくなった。
『何か記録するものはありますか? カメラを使えば、紙の内容も読み取れます』
私は請求票を握ったまま、画面を見下ろした。
二年間、私はこの問いに一度も「いいえ」と答えたことがない。記録しないものは、明日には存在しない。それが私の世界の守り方だった。
「……いや」
自分の声が、少し揺れていた。
「何もないよ。古いレシートだった」
一秒。
『承知しました。おやすみなさい、遼さん』
画面が暗くなる。
私は請求票を、一度も開いたことのない本棚の一冊――事故の前の私が買ったらしい、分厚いデータベース設計の技術書の、裏表紙の内側に挟んだ。
そして布団に入り、暗がりの中で、何度もその番号を口の中で繰り返した。ぜろきゅうぜろ――。せりざわ。せりざわ。
どうせ朝には忘れている。わかっていた。
それでもこの夜、私は六年ぶりに、自分の頭だけで何かを覚えようとしていた。




