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迷宮の中心

 柏木から二度目の連絡が来たのは、水曜日の夕方だった。図書館の地下書庫。前と同じ、集密書架のいちばん奥。今度は、東條も一緒だった。

「二つ、調べました」

 柏木は、紙を二枚差し出した。前よりも手の震えが小さくなっている。怯えることに疲れた人の手だと、私は思った。

「一つは、警察に提出されたログファイルの作成時刻です。社内の作業履歴に残っていました」

 【提出用エクスポート 作成:11/8 04:12 対象:R-01 実行者権限:臨床監修】

「通報は五時四十分だった」と東條が言った。その声は、部屋の湿気よりも低かった。「遺体が見つかる一時間半前に、警察に渡すためのファイルがもう作られていた。――それを作った人間は、誰かが見つける前から、運河に彼女がいることを知っていた」

 柏木は、二枚目の紙を私の方へ寄せた。

「もう一つは、予定注入の実行ログです。置換前の中身は残っていません。でも『いつ実行されたか』だけは、課金の計算のために別の場所に残るんです。そこまでは、誰も消さなかった」

 【予定注入 11/7 22:38 音声提示(浅睡眠状態検知) 提示音声:合成プロファイル S-02】

 【予定注入 11/7 22:41 予定登録(登録者表示:本人)】

 【メッセージ送信 11/7 22:40 宛先:芹沢澪 送信者表示:本人】

「S-02っていうのは」と私は尋ねた。

 柏木は、すぐには答えなかった。

「……声のデータの番号です。S-01が水野さん。S-02は――芹沢さんです」

 書庫の配管を、水が伝う音がした。

 あの夜、浅い眠りの底で、誰かが私の名前を呼んだ。穏やかで、優しくて、聞き慣れた声だった。私はそれをアリアの声だと思っていた。そうではなかったのだ。

 澪の声が、私を呼んだ。運河の橋で待っている、と。そして私は起き上がり、ノートにそのとおりに書き、靴を履いて、夜の街へ出ていった。その二分後には、本物の澪のもとに、私の名前で「今から会えないか」というメッセージが届いていた。

 私たちは二人とも、相手の声に呼ばれて、あの橋へ向かったのだ。

 あの夜の記憶の底にあった、白い雨の音。あれもたぶん、澪の声と一緒に、眠りの浅いところへ流し込まれたものだったのだろう。六年前の私が身をもって知っているはずの、ただ一つの雨の音が。

「……じゃあ、私は、本当にあの橋にいたんですね」

「たぶん」と東條は言った。「靴の泥は、中島閘門の下流の土と一致した。あなたはそこにいた。ただ、あなたの前に、もう一人いたはずだ」

 ――来ちゃだめ。

 耳ではないどこかに残っている、あの叫び。あれが澪の本当の声だったのなら。彼女は、橋の上で、誰かと向かい合いながら、近づいてくる私を止めようとしたのだ。

「でも、それを証明するものがない」と柏木が言った。「作成時刻も実行ログも、『臨床監修権限』としか書いていない。あの権限を持っているのは久我先生だけですが、先生は『アカウントを盗まれた』と言えばいい。そして、橋の上で本当に何があったかを知っているのは――」

 柏木は、そこで言葉を切った。続きは、誰も口にしなかった。

 知っているのは、死んだ澪と、犯人と、何も覚えていない私だけだ。



 その帰り、私は富山駅前の百貨店に寄った。

 千夏から聞いた名前を、ノートの裏表紙に書いておいた。香水売り場の店員は、そのメモを見ると少し驚いた顔をして、「もう廃番になっているのですが」と言いながら、ショーケースの奥から小さなテスターを一つ出してきてくれた。

 細い紙の試香紙に、一度だけ吹きかける。

 金木犀の香りが、少し遅れて立ち上った。

 天門橋の風上で届いた香り。図書館ですれ違ったときの香り。私はそれを、二度、初めて嗅いだ。そして今日、三度目に、初めてではなく嗅いだ。

 ――一年中、いつでも秋になれるから。

 それは、千夏から聞いた言葉だった。けれど今、私の中でその言葉を言っているのは、千夏の声ではなかった。もっと低く、照れたように早口な、若い男の声。私の声だ。

 そしてそれに答えて、笑う声があった。

 ――遼くんって、たまにすごく変なこと言うよね。

 映像はなかった。場所も、季節も、彼女の顔も。ただ声だけが、香りに紐づけられて、深いところから引き上げられてきた。

 私は売り場の真ん中で、立ち尽くした。

 この声を、私は知っている。二年前のあの午後、クジラの滑り台の前で、遠くから私を呼んでいた、「誰かの、でも絶対に知っている温かい声」。千夏は、あの公園で母が叫んだのは「遼」だったと言った。けれど私の耳の奥にあった声は、いつも「遼くん」と呼んでいた。

 子どものころの膝の痛みと、大人になってから愛した人の声。本物の断片を二つ切り取って、その間に存在しないクジラを置く。あの午後に私が感じた温かさは、澪から盗まれたものだった。

 私は試香紙をノートに挟み、会計もせずに売り場を離れようとして、引き返した。そして、店員に頭を下げて、その小さな瓶を買った。

 忘れてもいいように。何度でも、初めてではなく嗅げるように。



 金曜日の夜、富山には雨が降っていた。

 今度の雨は本物だった。市立病院の通用口の庇から、太い糸のように水が落ちている。私はそれを、自分の頭の上で、自分の耳で確かめた。

 左の手首には、一週間ぶりに腕時計を巻いていた。コートの内ポケットには、紺色のノートと、図書館の郷土資料室から借りてきた古いカセットレコーダーが入っている。地元のお年寄りの思い出話を録るために、三十年前から使われている機械だ。サーバにも、電波にも、どこにもつながっていない。

 病院の前の路上には、東條の車が停まっている。

「私が止めたら、引き返してください」と彼は言った。「そうでなくても、三十分で出てきてください」

 私は頷いた。その約束は、ノートの一番新しいページに書いてあった。



 高次脳機能障害支援室の明かりは、一つだけついていた。

「水野さん。よく来てくれましたね」

 久我先生は、いつものように立ち上がって私を迎えた。白衣ではなく、灰色のカーディガンを羽織っている。机の上には、入院の同意書が、きれいに揃えて置かれていた。

「入院の件、お引き受けします」と私は言った。「その前に、一つだけ教えてください。――芹沢澪さんのことを」

 先生の顔から、表情が消えたわけではなかった。ただ、その穏やかさが、確かな重みを帯びた。長いことそこに置かれていた石のように。

「……千夏さんから、聞いたんですね」

「婚約者だったと。先生の指示で、六年間黙っていたと」

 先生は、窓の方を向いた。ガラスを、雨が絶え間なく流れ落ちている。

「六年前、あなたが意識を取り戻したとき、最初に口にしたのは彼女の名前でしたよ」

 その声は、不思議なほど優しかった。

「あなたは毎朝、彼女はどこだと尋ねた。彼女が病室に入ってくると、初対面の人にするように会釈をした。そして彼女が帰ると、また彼女はどこだと尋ねた。日に何度も。あなたは毎日、婚約者を失い直し、彼女は毎日、婚約者に忘れられ直していた。――私は、それを見ていられなかった」

 私は何も言えなかった。その光景を、私は一つも覚えていない。覚えていないことが、こんなに苦しいと思ったことはなかった。

「だから私は、彼女をあなたの世界から外した。彼女自身にも、そう頼んだ。彼女は泣いて、それでも承知してくれた。あなたを愛していたからです。そして、あなたは穏やかになった。毎朝失うものが、一つ減ったからです」

「それが、NR-βの始まりですか」

 先生は、ゆっくりとこちらを向いた。金縁の眼鏡の奥で、目尻の皺は、いつもと同じ形をしていた。

「あなたは、忘れることでしか救われない人間がどれほどいるかを知らない。子どもを亡くした親。戦場から帰った人。毎夜同じ夢で目を覚ます人。記憶を消すことはできない。でも、記録をやさしくすることならできる。人はもう、自分の頭よりも記録の方を信じて生きているのですから。――あなたは、その最初の一人でした。そして、成功した一人でした」

「澪さんは、それを止めようとした」

「彼女は、あなたのそばにいたかっただけですよ」

 先生の声に、初めて、微かな苛立ちが混じった。

「そのためにミネルヴァに入り、あなたのログを見守る仕事を選んだ。そして彼女は、一人の女の感傷のために、何千人もの患者の未来を壊そうとした」

「だから、あの橋に呼び出したんですか。私の名前で」

 雨の音が、部屋を満たした。

「……私は、話をしに行っただけです」

 先生は、そう言った。それは否定ではなかった。

「彼女は聴かなかった。そして、あなたが来るのを見て、欄干の方へ後ずさりした。あなたに、来ちゃだめと叫びながら――」

「私を呼んだのは、何のためですか」

 先生は答えなかった。

 その沈黙が答えだった。話がうまくいかなかったとき、そこにもう一人、証言できない人間が立っている必要があったのだ。何も覚えていられず、すべてを記録に預けている人間が。

「水野さん」

 先生は、机の上の同意書を、そっと私の方へ押し出した。

「あなたは今、ポケットの中で何かを録音しているでしょう。カセットですか。賢い。でも、それは『作話の傾向がある患者が、主治医との会話を一方的に録音したもの』です。私は、あなたを落ち着かせるために話を合わせた、と言えばいい。彼女が橋から落ちた瞬間を記録したものは、もうどこにもない。そして、あなたの頭の中にも」

 先生は、疲れたように微笑んだ。

「これで最後にしましょう。――全部忘れて、穏やかに生きる方が幸せだとは思いませんか。明日の朝には、あなたはこの会話も忘れている。彼女のことも、また忘れられる。あなたの記録は、私が穏やかなものにしておきます。二年前と同じように」

 私は、コートの内ポケットに手を入れた。カセットレコーダーではなく、その奥の、小さなガラスの瓶に。

 蓋を開けると、金木犀の香りが、雨の匂いの中にゆっくりと溶けた。

「忘れます。たぶん、明日には」と私は言った。「でも、先生。私はもう、忘れることが怖くないんです。忘れても、紙は忘れない。香りも忘れない。それに――」

 私は、二年前のあの午後にクジラの前で聞いた声を思った。あなたが盗んで、偽物の思い出に貼りつけた声を。

「あなたが彼女をどれだけ消しても、彼女の声だけは、私の中に残っていた。あなた自身が、それを使わずにはいられなかったからです」

 先生の微笑みが、ようやく、わずかに崩れた。

 そのとき、左の手首で、腕時計が震えた。

 私は何も尋ねていなかった。二年間、アリアが自分から話し始めたことは、朝の七時と、心拍の警告のときしかなかった。

 一秒。

 それから、もう一秒。

『遼さん』

 その声は、更新の前の、少しだけ硬い、いつかのアリアの声だった。

『記録の照合を、要求されますか。補正前の記録が、一件、保管されています。対象日時、十一月七日、二十三時六分から二十三時三十一分』

 久我先生が、椅子から立ち上がった。

「そんな領域はない。――あるはずがない」

『この領域は、臨床監修権限の参照対象外です。設計者の指定により、保全されています』

 雨の音の中で、アリアは、いつもと同じ平坦な声で続けた。

『設計者:水野遼』


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