1-2 子猫
ハルは『ロイの店』のエマがなぜか気になった。仕事の帰りは下流の石橋を渡って、店が開いていたら寄るようになった。
ハルは、その日も石橋を渡ったが、店に明かりは灯っていなかった。
(今日はやってないか…)
ハルがそう思ったとき、『ロイの店』と隣の家との間の細い路地に、エマがしゃがんでいるのが見えた。ハルは自転車に乗ったまま声をかけた。
「ご機嫌よう!」
エマは、誰かに声をかけられるとは思いもしなかったのだろう。不審そうな顔で振り向き、それがハルだとわかると急に笑顔になった。
「あら、お客さん、今お帰りですか?」
「ああ、今日はやってないんだね。」
「ええ、すみません…」
「そこで何をしているの?」
「子猫が生まれたんです。」
エマの前には、野菜かなにか入れてあった木箱がある。子猫はそこにいるのだろう。
「へえ、俺も見ていいか?」
「ええ、どうぞ」
ハルは、壁に自転車を立てかけて木箱に近づいた。すると母猫が歯をむき出して威嚇した。
ウーッ シャーッ
「あっ、お客さん、急に近づかないで!母猫が警戒してひっかかれますよ。」
「そ、そうか」
ハルは、少し手前から首を伸ばして木箱を覗いた。母猫のお腹のそばに小さな子猫が3匹、ぱやぱやとした毛がはえている。お腹だけは一人前に大きく上下して、生きようとするエネルギーに溢れている。
「へぇ~、かわいいもんだな。」
「ええ、お客さん、子猫見たことないんですか?」
「どうだろう、記憶にないな。肥満の猫は見たことがあるが…」
ハルは、皇宮の猫好きの高官が飼っていた贅沢させすぎの猫を思い出した。エマはいかにも可笑しそうに破顔した。
「まあ、あははは、そんな猫いるんですね。」
「ああ、これ野良猫か?」
「ええ、そこの草むらで産んでいたんです。何でこんな所で産むんでしょうかね。もっと金持ちの住む辺りで産んだ方が食料にありつけると思うのですが…」
「どうだろうな~、この辺は自由でいいんじゃないか…。」
「そうでしょうか…。」
「君は自由じゃないの?」
「どうでしょうね…」
(生活苦はあるにせよ労働者階級の方が自由だと思ってきたが、そうでもないのか?俺は、皇宮という檻の中で育った。特にそこから出ようともしていなかったのでどうとも思わなかったが、今思えば小さな世界しか知らなかった。今また、国の監視の下、見えない檻の中で住んでいるようなものだ。クリスは、もっと自由でいいと言っていたな…、檻を作っているのは自分自身なんだろうか?)
「お客さん?」
「あ、すまない。すこし考え事をしていた…。それでその子猫はどうするんだ?」
「うちは食べ物を扱っているし、飼う余裕もないのでどうしようかと思っていたら、工場の人で引き取ってくれるって言う人が現れて…今から工場に持っていくんです。」
「今から?その木箱で?」
「はい」
「遠いの?」
「う~ん、30分ほど歩いた先です。」
子猫は軽いが母猫もいる。そもそも木箱が重いのだ。抱えて歩くには負担が大きそうだ。
「俺が持って行ってあげるよ。」
「えっ?お客さんが?」
「ハル」
「えっ?」
「俺はハルだ。」
「ハルさん?…私はエマです。」
「知っているよ。」
「えっ?」
「客達が、君のことエマって呼んでる。」
「そ、そうですね。常連さんしか来ないから…、お客さん…ハルさん?のような人がいきなり来てびっくりしました。」
「そうか」
「この子たちは大丈夫です。自分で持って行けます。」
「いいよ。遠慮しなくても。結構重そうだ。しばらくは持てても長い距離はきついだろう。」
ハルはそう言って、木箱を持ち上げた。
「ハ、ハルさん、洋服が汚れます!」
「もう帰るだけだからいいんだよ。工場はどっち?」
「すみません、川の下流の方です。」
エマと木箱を抱えたハルは、川沿いを下流に向かって歩いた。緑地は10分ほど歩くと途切れ、アスファルト舗装も剥がれ落ちて修復されないまま放置されていた。
「エマは、どんな工場で働いているの?」
「縫製工場です。軍服や制服を縫っています。」
「そうか…」
ハルの檻は、先ほどまで21番街が最果てだった。今それを飛び越えてこんな所まで来てしまった。ハルの上品な服装は場違いで、すれ違う人々から胡乱な目で見られ、隙あらば何か盗もうとでもする目つきだ。
「ハルさん、こんな所来たことないでしょう。すみません…」
「いや…」
「まだこの辺はましなんです。この先ずっと行けば製鉄工場が建ち並んでいます。男の人ばかりでとても近づくことはできません。」
「そうか…」
しばらくすると、古びたレンガ造りの門に板をはりつけた所にやってきた。字が消えかけているが縫製工場と書いてあるらしい。
「ここです。ハルさん、ありがとうございます。ちょっとここで待っていてください。人を呼んできます。」
部外者は入れないことになっているのかと、ハルは門で佇んだ。門を出入りする者は、ハルを認めると、ジロリと横目で見ていく者もいれば会釈していく者もいる。
(エマは、ここに毎日通っているのか…)
ハルの感傷をよそに、騒がしい女性がやってきた。
「あらま、エマ!どうしたんだい、いい男じゃないか。」
「ち、違うよ。店のお客さんよ。木箱が重いからと持ってきてくれたの。」
「そうかい。あらま、子猫ちゃん、かわいいこと。うちの坊主たちが猫飼いたいっていうもんだからさ。ちょうど良かったよ。旦那、ありがとうございました。」
そう言って騒がしい女性は、ハルから軽々と木箱を受け取った。
「ど、どうも。宜しく頼む。」
「ええ、ええ、宜しく頼まれますよ。じゃあね、エマ、宜しくやりなよ!」
女性は、木箱を持ったまま肘でエマの背中をつつく。
「だから、そんなんじゃないから!」
「………」
唖然とするハルを尻目に、女性は去って行く。
「ハルさん、すみません。気を悪くしないでください。」
「いや、逞しい女性だね。」
「ええ、いい人なんです。」
帰りは二人で他愛もない話しをした。ハルは、いい年齢をして大冒険をしたような気になった。




