1-1 ロイの店
3月、研究室に差し込む日差しも和らぎ、ようやく暖かくなってきた。特に今日は暖かい。ハルは緑を帯びてきた窓の外に目を細めた。躓いていた課題もようやく一段落したところだ。
(今日は早めに帰るか…、たまには下流の橋から帰ってみよう)
下流の橋は、川が大きく蛇行して州がせり出している場所にかかっていた。上流の橋より幅が狭く、古いが石作りで趣があった。ハルはいつもよりゆっくりと自転車をこぎ春めいてきた景色を楽しんだ。
橋を渡りきると、その州のあたりは、工場労働者などが多く住んでいて小さな家が密集している。その光景が、いろんな匂いが混じりあった猥雑でもの悲しい空気を漂わせていた。決してここまで何か匂ってくるわけではないのだが…。
(21番街…)
ハルは、緑地と21番通りの交差する角にある小さな店が目にはいった。窓越しに給仕をしている女性が見える。
(『ロイの店』ふぅ~ん、シチュー専門かぁ、たまにはこういう所で食べて帰ろう)
通りのガス灯は所々切れているがノスタルジックな雰囲気が好ましく思えた。ハルは、自転車を壁に立てかけ、古びた扉をあける。
‘カラン、コローン’
店内は、女性がやっているには飾り気のない作りだった。古いなりに掃除が行き届いている。
「いらっしゃ~い」
カウンターの中から明るい声がした。さっき窓越しに見た女性が振り返って、ハルを見るなり固まった。カウンター席にいた親子連れも、店の女性につられてハルを振り返るなり、あんぐりと口をあけている。
ハルにすればいつものことだ。ハルは造形といい所作といい美しいのだ。そのような反応をされることに慣れている。だが初めて会う方はそういうわけにもいかない。‘掃き溜めに鶴’とでも言おうか、特にこんな労働者階級の者が出入りする店に、来ることのない人物が現れて固まっているのだ。
店の女性は、遠慮がちに言った。
「あの、お客さん、せっかくですが、ウチはお客さんの口に合うようなものはお出しできなのですが…。」
「いや、シチューの店だろ?それを頂こう。」
「そ、そうですか……。では、どこでもお好きなところにどうぞ。」
ハルは、素早く店内を見渡す。カウンター席が3席、親子連れが相変わらずこちらを見ている。窓際にテーブルが2席、左壁際に2席。ハルは壁際の席に座った。
(もう必要ないというのに、笑ってしまうよな…)
ハルは、つい部屋の構造、人物配置に目がいく。自分がどこにいれば安全か、幼い頃より教え込まれた習慣が今も抜けないことに内心苦笑した。
ハルは、こうして行き当たりばったりで、初めての店にはいることにもようやく慣れてきた。普通の人間は、何かの事件に巻き込まれない限り、そうそう刃を向けられることも、毒をもられることもないと理解したのだ。
「シチューは、その日によって具材の違う1種類、それからパンしかないけどいいですか?」
「ああ、いいよ。パンは何だい?」
「今日は、塩パンです。」
「塩パン?それをお願いするよ。」
「飲み物は、水かエール。お客さんの口に合うようなものはないけど…。」
「そう。その、エールをもらおう。」
「そ、そうですか。ありがとうございます。じゃあ、ちょっと待ってください。」
「お先にエールをどうぞ。」
ハルは、女性のエールの置き方を見て、ぼんやりと思った。
(所作がきれいだな…)
カウンターの親子連れは、母親と女の子だ。シチューとパンを一人分だけ注文しているようだった。店の女性は、子供用にと空の器とスプーンも出していた。
「モナ、誕生日おめでとう!いくつになったんだい?」
「8歳!」
女の子が恥ずかしそうに答える。
「そうかい、これは私からのプレゼント!」
店の女性はそう言って、パンをもう一皿追加した。小さくちぎって蜂蜜か何かかけてある。
「エマちゃん、ありがとう。いつもすまないね。この服もエマちゃんが手直ししてくれたから今日着せてきたんだ。モナ、汚さずに食べるんだよ。」
「うん。エマねえちゃん、ありがと。これ気に入っているんだ!」
女の子は、洋服の胸元についた花のアップリケを嬉しそうになでている。
「そんなことぐらい、お安いごようさ。いつでも言ってよ。」
ハルは、三人の会話を聞くともなく聞いていた。
(エマっていうのか…)
ハルは、エールを一口飲んだ。
(誕生日か…、皇宮にいた時はそれなりに祝ってくれたが…母上が祝ってくれたことがあっただろうか?いや、たしかプレゼントはもらったな…ああ見えて、母上は皇后様に遠慮していたのだろうか?俺は…皇后様になついていたから。俺は、もっと自分から母上に甘えにいけばよかったのだろうか?)
「お待たせしました~!」
エマは、トレーに乗せたシチューとパンを運んできた。スプーンが美しく磨かれている。
「ウチはトレーのままお出ししているんです。熱いから気をつけてください。どうぞごゆっくり。」
「ありがとう、頂くよ。」
(おや、この塩パン、15番街のでは?)
シチューは、野菜の形がないほどよく煮込まれていて香辛料が効いていた。肉だけが、ごろっと大きく、その存在感が客に満足感を与えてくれる。素朴なシチューと慣れたパンの味で、ハルの胃袋はゆっくりと満たされていった。
「ごちそうさま、美味しかったよ。」
「ありがとうございます。860ルピです。」
「えっ安すぎだろ?エールも頼んだけど…。」
「まあ、そんなこと言ってくれるお客さん初めてです。シチューが600ルピよ。」
ハルはお代の安さに驚いたが、エマの話し方がちぐはぐなのにも違和感を持った。
「じゃあ、これ、釣りはいらないよ。」
「銀貨?こ、これはもらいすぎです。」
「俺が、価値があると思ったからいいんだ。」
「す、すみません。では遠慮なく、ありがとうございます。」
「ここは一人で?毎日開いているのか?」
「ええ、一人です。週3日夕方から開けています。昼間は工場で働いているから、その都合で開ける日が決まるけど。」
「そうか、じゃあまた来る。」
「あ、ありがとうございます。」
女性は少し顔を赤らめてお辞儀をした。そのお辞儀の仕方も美しかった。




