♡ クリス
ハルが、植物園に併設されているカフェでランチをとっていると、スタッフが伝言を預かってきた。
「ハル先生、クリス・ハドリー様よりお電話がありました。今晩ご自宅に寄ります。お夕食は用意しておきます、とのことでした。」
「ありがとう、もう1ヶ月か、早いね。」
◇
ハルが仕事を終えて自宅に戻ると、クリスが書類を見ながらハルを待っていた。
「クリス、待たせたね。」
「ハル様、お久しぶりです。早速ですがこれが今月の収支と来月分の費用です。」
「ありがとう、こんなこと部下にやらせれば…。」
「毎回とはいきませんが、都合がつくときはハル様のお顔を見にきますよ。ところでハル様、一体どのような生活をなさっているのですか?貯まるばかりで支出がほとんどないのですが…」
「どうって、自宅と研究所の往復生活で使うのは食事代くらいだからな。管理は任せたから適当にやってくれ。」
クリスは、シャンバル帝国に本拠地があるハドリー・カンパニー創業家の五男である。ハドリー・カンパニーは世界有数の大企業だ。クリスは、このニュータウン開発を足がかりにエルディア王国に販路を開き、現在はエルディア王国で多くの企業を展開している若き総責任者である。
ハルの言うとおり、クリスは、一人の男の家計の面倒など、みる立場でもなければ、みる暇もないはずなのだ。だがクリスは、時間があれば、こうしてハルの様子をみに来る。
「ハウスメイドはいかがですか?」
「ああ、顔を合わすことがないからわからないが、きちんとしてくれるよ。牛乳とりんご、クリスの手配だろ?りんごはいいけど牛乳はどうも…」
「ハル様は食事に無頓着だから、あれだけは我慢して飲んでください。…ああ、何だって、このクリス・ハドリーが女房みたいなことをしているのでしょうか。」
「あはははっ、すまないね。」
「とにかく夕食にしましょう。勝手知ったる他人の家ですからケータリングしました。シャンバル原産のモロコシのスープもありますよ。シャンバルのワインもご用意しました。」
「クリス、俺、そんなにシャンバルに未練ないから…」
「まあ、いいじゃありませんか。たまには…」
男二人で、懐かしい味を堪能しながら会話は進む。
「クリス、皇宮には行くのか?兄上はお元気だろうか?」
「私は、ほとんどエルディア王国の仕事をしていますので、シャンバル帝国の皇宮には次兄が出入りさせて頂いています。兄君ザイオン様が皇帝の座におつきになって何年になりましたか…、あの混乱も落ち着いてご評判もよいようですね。こうしてモロコシも出回っているので食糧難も脱したのではないでしょうか。」
「そうだね、兄上は優秀だからな。」
「父君、前皇帝と皇妃様も表に出ることはないですが離宮でお元気だそうです。」
「そうか、それは良かった!」
「ザイオン皇帝もハル様のことを気にかけられているのだと思います。こうしてハドリー・カンパニーを使って頂くのも、ハル様のことを少しでもお知りになりたいのではないでしょうか。」
「ああ、それは嬉しいことだが複雑な気持ちだ。5年前の政変のとき、兄上は、俺をこの国に亡命させてくれた。ハルシオン第二皇子は死んだことにしてね。兄上の思いに応えるためにも生きようとは思っているんだ。だが母上も祖父も亡くなった。第二妃だった母上は、表だってはいないが政変に関わっていたようだ。あの頃はあの人と血がつながっていると思うだけでおぞましかった。でも今になって思うんだ、俺と血のつながった人はもう誰もいない。俺も一緒に死んだ方がよかったんじゃないかって。」
「ハル様、何をおっしゃっているのですか、前皇帝とも、ザイオン皇帝とも血がつながっているじゃありませんか。」
「それはそうなのだが…」
「母上様が違うだけ。それもザイオン皇帝は、どれほども気にされていないと伺っております。」
「そうだな…あっ、すまない。愚痴になってしまったね。ここに不満はないんだ。みんな良くしてくれるよ、ウォルター公爵レナードも研究所の人達もね。」
「レナード様は、あのあとすぐルイーズ様とご結婚されて2年後には爵位を継がれましたね。ご嫡男もすくすくお育ちのようです。」
「ああ、研究所の設立がレナードの発案だったなんて後で知ったんだ。名誉所長との関係もあってルイーズ夫人と話す機会があるのだけど、ルイーズ夫人と話すだけでレナードは不機嫌なんだよ。あの溺愛はどうにかして欲しいよ。」
「はははっ、あのお二人は特別ですからね。ハル様もご家庭を持ったらいかがですか?」
「………」
「ハル様、ザイオン皇帝はそれも否定されておられないのでは?皇帝には、もうお二人の皇子がお生まれになりました。ハル様をどうこうする人もいないでしょう。私が言うのも何ですが、もっと自由でよろしいのですよ。」
「そうだが…」
「そもそも側近でもない限り、シャンバル帝国の民は皇帝のお顔を知らないのです。ましてや引きこもりの第二皇子のお顔など覚えていません。この国ではなおのこと。」
「酷い言い方だなあ。」
「いいえ、よい意味です。ハル様は前皇帝にそっくりですがお色が違います。人は色のことは覚えていますからね、だから良かったのです。よいお方はいないのですか?」
「いないよ…、俺の話ばかりだが、クリスはどうなんだよ。」
「わ、私ですか?」
「クリスは俺のひとつ上だから26才だろ?ハドリーの御曹司がいつまでも独身でいいのか?まあ、あっちこっちで浮名を流しているという噂は聞いているが…。」
「何をおっしゃいます。仕事関係で女性とつながりがあるだけですよ。私も母のことがあるので、ハル様の気持ちは少しわかります。でも、ほんとに信頼できる人と巡り会いたいとは思っていますよ。」
「へえ、そうなんだ。クリス、そんなこと考えているんだね。」
ニヤリとしたハルに、クリスは少したじろいだ。
「ば、馬鹿なことを。ハル様は浮いた話はないのですか?」
「浮いた話ねぇ…浮く前に沈んでしまったよ。」
「おや?何かあったのなら話して下さい。不本意ながら私はハル様の女房役なので。」
「あははは、そうだね。」




