♡ ハル
カーテン越しに柔らかな朝陽が差し込む。男は、白銀の髪をわしゃわしゃとかきながら時計を見る。
(5:30かぁ~)
豪華な洗面台、タオルはきちんと用意されている。水も湯も蛇口をひねれば出てくる。男は、歯を磨き、顔を洗い、タオルをその辺に無造作に置く。磨き上がられた鏡の前で、髪をぐしぐしと手で整えると黒い伊達めがねをかけた。
ベッドルームに戻ると、白いシャツと黒いトラウザーを身につけ、今度はキッチンに向かう。一人暮らしには不要な豪華で広いキッチンだ。ここに、毎日新鮮な牛乳とりんごが用意されている。男は苦手な牛乳を一気に飲んだ。
(グェ、こんなもの何であるんだろ)
毎朝そう思いながら、空になった牛乳びんを洗うこともなくシンクに置く。
男は、玄関にかけてある革製の四角いリュック鞄にりんごを放り込んで、そうっと玄関を出る。まだ朝早い、階下への配慮はしておく。
ここは王都の一角、都市計画で整備されたニュータウンにある高級アパートメントのペントハウスだ。男がエレベーターを使わず軽快に階段を降りると、コンシェルジュのカウンターから声がかかった。
「おはようございます。ブ、ブライエン様」
「おはよう、ミスターハリス。俺のことはハルでいいよ。ブライエンなんて自分でも呼びにくいからね。」
「恐れ入ります。ではハル様と。ハル様、朝刊です。自転車は裏手に用意しています。」
「ありがとう、そんなことまでしてくれなくていいんだよ。」
「いいえ、私が好きでしているのです。お気をつけていってらっしゃいませ。」
「ああ、いってくる」
ハルは、朝刊を革鞄に突っ込んで裏口から出ると、自転車が美しく磨かれてスタンバイしていた。
(ミスターハリス、やりすぎ…。ミスターハリスを見ると、なぜかあいつを思い出すんだよな、あいつもうるさかったなぁ~)
ハルは、かつて自分に仕えてくれた者を思い出したが、感傷的になる自分を振り払って自転車のペダルをこいだ。
◇
ハルの住まいは、デイビー11番街、王宮に近い方から番号が振られるから11番目の通りだ。毎朝ハルは、15番街まで下ってパン屋に寄る。
「おはようございます。ハル先生、用意していますよ、クロワッサン2個と塩パンね。先生、ウチの残りで悪いんだがチーズもつけとくよ。女房が先生に栄養つけて欲しいってさ。何しろウチの女房と娘ときたらハル先生の大ファンだからよ。」
「ありがとう、残念ながらお気持ちには応えられないなぁ、こんな素敵な旦那さんで父上がいるのにさ。お代、ここに置いておくね。」
「またまた、ハル先生は嬉しいこと言ってくれますねぇ。」
ハルは、パン屋の親父さんとは気心が知れて、ちょっとした軽口を言えるようになった。
お代は銅貨3枚程度なのだが銀貨1枚を置く。ハル用のパンは、わざわざ小さめに作ってもらっている。親父さんお勧めの塩パンを追加して食べるために。この辺は労働者も多いのでパンが大きいのだ。ハルには無理して余分に食べるという概念はない。
「じゃあ、いってくる」
「毎度。ハル先生、いってらっしゃい」
実はハル、そんじょそこらにはいない美麗な男である。伊達めがねも目立たないためなのだが、自転車に乗ると、ボサボサの白銀の髪も風になびいて、高い鼻梁、涼やかな目元、美しく整った口元があらわになる。ハルとすれ違うと大抵の者が振り向くのだ。
ハルは、15番街からエルベ川沿いの緑地に出る。そこから同じくらいの距離で、上流と下流に橋があるのだが上流の橋を渡る。なぜなら橋のさらに上流に鉄橋があって列車が見えるからだ。しかもエルベ川の蛇行のおかげで、鉄橋の向こうに王城、春秋には日の出が見え、何重にも贅沢なビューポイントなのである。
◇
川の向こうの広大な自然公園の一画にハルの職場「王立ルイーズ植物研究所」がある。誰でも観覧できる植物園も併設している王家とウォルター公爵家肝いりの施設だ。
ハルはそこの副所長だ。副所長といっても所長はいない。研究所の名ともなっているウォルター公爵夫人ルイーズが名誉所長をしている。要するに実質ハルがここのトップである。
ハルは大抵一番にやってきて、まずは植物の様子を見てまわり、異常がないとわかるとバックヤードで茶の用意をする。
(今日はどの茶葉にしようか…)
ハルは、湯を沸かしながら茶葉を選ぶ、最高級茶葉だ。茶のことは譲れない。ハルはここに来るまで自分で茶を入れたことがなかったが、茶の本を拾い読みなどして試行錯誤の末、ようやく自分で入れられるようになった。
マグカップなるものがあることも知ったが、やはり茶は口当たりのよい薄い華奢なカップで飲むのに限る。そのためハルが使うバックヤードには、ここに不似合いな高級茶器がいくつか並んでいた。
ハルには、トップに相応しい副所長室があるのだが、職員みんなが使う休憩室で朝食をとる。しかし、周囲の者の方が気をつかって窓辺の陽当たりの良い席が、ハルの特等席と決まってしまっている。しかもハル用に高級なテーブルクロスまでかかっているのだ。ハルは、特別扱いを好まないが、かといって特別な育ち方をしたので、優先されることに違和感を感じることもなかった。
ハルは、茶と、クロワッサン、塩パン、もらったチーズ、りんごで朝食だ。塩パンの半分はそのまま、あと半分は植物園でとれた蜂蜜をつけて頂く。りんごの丸かじりはここで覚えた。
ハルは姿勢正しく優雅に食事をする。あたかもすぐそばに楽団がいて、朝に相応しい音楽を奏でているかのように。
二杯めの茶を飲みながら朝刊を読んでいると、そろそろ職員がやってくる。
「ハル先生、おはようございます。今日も早いですね。」
「やあ、おはよう。今日も宜しく頼むね。」
「はい!ハル先生のお顔を見ると元気がでます!」
本人は気がついていないが、ハルは、まあまあ誰にでも好かれている。




