第3話
初の自宅へ続いていたはずの玄関は、彼が離れた途端、ぐにゃりと歪んだ。
扉も、表札も、周囲の壁へ溶け込むように消えていく。
「ああ……」
初が名残惜しそうな声を漏らす。
「露骨に残念そうにしないでください」
「あと三歩だったのに」
「踏み込んだら、ここへ戻ってこられたか分からないでしょう!」
「家に帰れるなら戻る必要なくない?」
「あります! 行方不明者を助けて、原因を鑑定するまでが仕事です!」
「真面目だなあ」
「夜鷹さんが不真面目すぎるんです!」
陽向はつかんだ上着を離さなかった。
初は逃げるのを諦め、廊下の壁へ背を預ける。
「今の反応で一つ分かった」
「なんです?」
「帰りたい場所を強く思い浮かべると、その場所へ続く道が現れる」
「さっき町から出られた時と同じですね」
「ただし、本当にそこへ到着するかは不明。無事に辿り着けるかどうかも」
「さっき迷わず入ろうとしてましたよね」
陽向は鞄から携帯端末を取り出した。
画面には、行方不明となっている住民と観測員の名簿が表示されている。
氏名、年齢、住所、家族構成。陽向はそれらに素早く目を通した。
「現時点で行方不明者は二十五名。全員がこの空間にいるとは限りませんが、さっき声が聞こえた以上、少なくとも何人かは近くにいるはずです」
「近いっていっても、空間は歪んでいる。パッと見の通りの距離とは限らないな」
「それでも、探します」
陽向は先ほど叫び声の聞こえた廊下へ向き直った。
「助けてくれ!」
再び男の声が聞こえる。
廊下の奥からだ。
だが、声は反響を繰り返し、右からも左からも聞こえてくる。
「どっちです?」
「俺に聞くなよ」
「感情が見えるんでしょう?」
「壁の向こうまでは見えない」
「……あんまり役に立たないですね」
「人間コンパスに言われたくない」
「僕は役に立ってます!」
陽向は目を閉じた。
しばらく意識を集中させたあと、三本に分かれた廊下のうち、右端を指さす。
「こっちです」
「根拠は?」
「他の二本は、方角が歪んでいる。きっと途中で進行方向が反転しています。真っすぐ進んでも、実際には後ろへ戻されています」
「右は?」
「少なくとも、北へ進み続けています」
「行方不明者が北にいる保証は」
「ありません」
「……だよね」
「何もしないよりはましです!」
陽向が先に走り出す。
初は大きなあくびをして、その背中を追った。
廊下には、同じ教室がいくつも並んでいた。
扉に掛けられた札は、すべて『一年一組』。
陽向が一つ目の扉を開ける。
中は空だった。
二つ目も、三つ目も同じ。
小さな机と椅子が整然と並び、黒板には『きょうもげんきにかえりましょう』と書かれている。
四つ目の扉を開けた時、教室の奥で誰かが机にしがみついていた。
「いました!」
灰色の作業着を着た男だ。
校庭で同じ場所を歩き続けていた人物だった。
男は二人を見ると、泣きそうな顔で立ち上がった。
「助けてくれ! 何度廊下に出ても、この教室に戻ってくるんだ!」
「神格鑑定局です。落ち着いてください」
陽向が男へ近付く。
「お名前を確認してもいいですか?」
「山根……山根隆司だ。解体業者の者だ」
陽向は端末の名簿を確認した。
「行方不明者の一人です。怪我はありませんか?」
「あ、ああ。大丈夫だ」
「昨日、この学校で何をしていました?」
「資材の撤去だ。校門のところにあった古い看板を外して、倉庫へ運んだ。そのあと、帰ろうとしたら……」
山根は震える指で、教室の扉を指さした。
「気付いたらここにいた。何度出ても戻ってくる。校門を乗り越えようとしても、また校庭や教室に戻っているんだ」
「看板を外したのは何時頃です?」
「夕方の四時くらいだと思う。ちょうど、昔の下校放送が鳴って……」
初は教室の中を見回した。
窓の外には夕焼けが広がっている。
太陽は地平線のすぐ上にあるが、沈む気配はない。
「山根さん」
初が声を掛ける。
「今、一番帰りたい場所はどこ?」
「え?」
「考えずに答えて」
「家だ。妻と娘が待ってる」
教室の壁が小さく軋んだ。
「その家に住み始めて何年?」
「十年くらいだ」
「その前は?」
「この町の実家に……」
山根の視線が、教室の黒板へ向いた。
「俺は、この学校の卒業生なんだ」
教室が大きく揺れた。
廊下へ続いていた扉が二つに増える。
一方は新しい木製の扉。
もう一方は古びた引き戸だった。
新しい扉の向こうからは、少女の笑い声が聞こえる。
古い引き戸の向こうからは、大勢の子供が歌う校歌が聞こえていた。
「帰る場所が二つに分かれた」
初が呟く。
「今の家と、子供の頃の居場所……」
陽向は二つの扉を見比べた。
「どうすればいいんです?」
「それは本人が決める」
初は山根へ向き直る。
「どっちへ帰りたい?」
「そんなの、今の家に決まってる」
男はそう答えたが、視線は古びた引き戸から離れない。
まるで不思議な力に魅せられているように。
校歌が聞こえる。
放課後のざわめき。
友人らしき子供たちが、山根の名を呼んでいる。
『隆司、早く帰ろうぜ』
『また明日な』
山根の顔が歪んだ。
「懐かしい……」
古い引き戸が、ゆっくりと開き始める。
「そっちを見ないでください!」
陽向が声を張り上げた。
「あなたが今、帰るべき場所を口にしてください!」
「でも……」
「そこへ帰っても、もう誰もいません!」
山根の身体が強張る。
初は陽向の肩を軽くたたいた。そして山根の正面に立つ。
「過去を懐かしむのは勝手だ。帰りたいと思うのも悪くない」
山根は、古い引き戸を見つめている。
「でも、帰るってのは場所だけじゃないだろ」
「……」
「今、あんたを待ってる人はどっちにいる?」
新しい扉の向こうから、女の子の声がした。
『お父さん、遅いね』
『もうすぐ帰ってくるよ』
山根が息を呑む。
「妻と……娘だ」
「そう、自分で言え」
初は新しい扉を指さした。
「あそこが自分の家だって」
山根は唇を震わせた。
「俺の家は……妻と娘がいる家だ」
古い引き戸が止まる。
「この学校じゃない」
校歌が遠のいていく。
「俺は、家族のところへ帰る!」
古い引き戸が消えた。
同時に、新しい扉が大きく開く。
向こう側に見えたのは、学校の廊下ではない。
町の入口に設置された封鎖線だった。
「行ってください」
陽向が言う。
「振り返らずに」
山根は何度も頷き、扉へ向かって走り出した。
封鎖線の向こうにいた職員たちが、こちらへ気付く。
山根が扉をくぐった瞬間、その姿は町の外へ転がり出た。
扉が閉じる。
教室には、初と陽向だけが残された。
「一人目」
初が言った。
「今の方法で、他の人たちも助けられるかもしれません。……帰りたい場所を明確にさせる。昔の記憶じゃなくて、今帰る場所を選ばせる」
陽向はすぐさま端末へ記録を始めた。
「異能は対象者の『帰りたい場所』に反応する。ただし、複数の候補がある場合は道が分岐する。本人が明確に帰る場所を選択すれば――」
「あとで書けよ」
「忘れる前に記録してるんです」
「優秀な後輩だな」
「夜鷹さんも覚えておいてください。報告書に必要ですから」
「お前が覚えてればいい。報告書を書くのはお前の仕事だろう」
「自分でも書いてください!」
その時、遠くから女の泣き声が聞こえた。
続いて、男の怒鳴り声。
別の場所から、何人もの助けを求める声が重なる。
陽向は端末をしまった。
「行きましょう」
「もしかして、この調子で全員に人生相談して回るのか?」
「他に方法がありますか?」
「……時間かかりそうだな」
「暗くなる前に終わらせるんでしょう」
「もうずっと夕方だけど」
窓の外では、赤い太陽が同じ場所に浮かび続けている。
初はそれを見て、わずかに目を細めた。
「——いや。暗くなる前に帰せ、か」
「どうしました?」
初は教室の扉を開ける。
「やっぱり、急いだ方がいいかもしれない」
二人は声を頼りに、廊下を進んだ。
次に見付けたのは、観測課から派遣された職員だった。
若い女性で、廊下の隅に座り込み、携帯端末を胸に抱えている。
彼女の前には三つの扉が並んでいた。
一つはマンションの玄関。
一つは病院の病室。
もう一つは、神格鑑定局の職員通用口。
「どこへ帰ればいいのか分からないんです」
女性は泣きながら言った。
「家に帰りたい。でも、入院している母のところにも行きたい。仕事だって、急ぎの連絡が……」
「今すぐ、すべてを選ぶ必要はありません」
陽向が女性の前にしゃがむ。
「今、最初に行く場所を決めてください。そのあとで、次の場所へ行けばいい」
「でも、間に合わなかったら……」
「ここにいたら、どこにも行けません」
女性は三つの扉を見比べる。
やがて病室の扉を選んだ。
「母のところへ行きます」
「そこを出たら?」
「上司へ連絡して、それから家に帰ります」
残り二つの扉が消える。
病室へ続く扉だけが残り、その向こうに封鎖線が現れた。
女性を送り出したあとも、二人は同じ方法で行方不明者を見付けていった。
亡くなった夫のいる家へ帰ろうとしていた老女。
高校時代の部室から出られなくなっていた青年。
仕事場と自宅の間を延々と往復していた会社員。
全員が、心のどこかに複数の『帰る場所』を抱えていた。
本人に一つを選ばせることで、道は町の外へつながった。
しかし、すべてが順調にいったわけではない。
「帰りたくない」
六人目に見付けた少年は、そう言った。
年齢は十二歳ほど。
学校の階段に座り込み、膝を抱えている。
「家に帰りたくない」
少年の周りには扉が一つもなかった。
初は眼鏡を外した。
ぼやけた少年の身体から、黒く淀んだ感情が浮かんでいる。
恐怖。
嫌悪。
諦念。
その奥に、助けを求める小さな光があった。
「夜鷹さん?」
初は眼鏡を掛け直す。
「こいつは、家に帰す必要はない」
「え?」
「町の外へ出たら、保護するよう伝えろ」
陽向は少年の姿を見て、すぐに事情を察したようだった。
表情を引き締め、少年と目線を合わせる。
「家じゃなくてもいいんです」
「……?」
「今、一番安全だと思える場所はありますか?」
少年はしばらく黙っていた。
「おばあちゃんの家」
「どこにあります?」
「隣の市」
「そこへ行きたいですか?」
少年が、小さく頷く。
「おばあちゃんの家に行く」
階段の踊り場に扉が現れた。
その先にあるのは隣の市ではなく、これまでと同じ町の封鎖線だった。
陽向は少年を扉の前まで送り、外にいる職員へ保護を頼む。
扉が消えたあと、陽向はしばらく何も言わなかった。
「あれは『帰りたくない』という願いまで叶えてあげていたってことですか」
「人間の願いをそのまま叶えれば幸せになる、なんて単純な話じゃないんだけどな」
初は壁へ背を預ける。
「だから教えてやる必要がある」
「夜鷹さんが真面目なことを言ってる……」
「失礼な後輩だな」
その後も二人は空間に残る声を追い、人々を同じ手順で町の外へ送り返した。
行方不明者を送り返すたび、廊下の数は減っていった。
複雑に交差していた道は一本ずつ消え、やがて二人の前には真っすぐな廊下だけが残った。
その先に、一枚の古びた看板が立っている。
黄色い帽子をかぶった子供。
その手を引く大人。
色褪せた文字。
『くらくなるまえに、おうちへかえろう』
校庭で見付けた看板と同じものだった。
だが、目の前で看板の絵が変わっていく。
大人の姿が消え、黄色い帽子の子供だけが取り残されていた。
まるで家に帰れなかった迷子のように。
「夜鷹さん」
「分かってる」
初はゆっくりと近付いた。
看板まで、残り十歩。
その時、廊下の左右に無数の扉が現れた。
素早く視線を巡らせる。
初の自宅。
陽向の自宅。
鑑定局の仮眠室。
町の封鎖線。
初は自宅の扉を恋しそうに眺めていた。
その横に、見覚えのない家々が並んでいる。
救出した人々が思い浮かべていた、いくつもの帰る場所だった。
『おうちへ』
校内放送の声が響く。
『かえらなくちゃ』
初は眼鏡を外した。
看板からあふれる感情が、視界を埋め尽くす。
「……酔いそう」
そう苦く呟くほど、重く切実な感情だった。
焦り。
使命感。
不安。
人間を害そうとする悪意は、どこにもない。
ただ、帰さなければならないと思っている。
一人残らず。
暗くなる前に。
正しい家へ。
そして、その奥にあるのは、途方もない寂しさだった。
「やっぱり、お前も帰りたいんだな」
看板の子供が、わずかに動いた。
描かれた顔が初の方を向く。
『おうちへ』
「でも、自分の家がどこか分からない……か」
看板の周囲にある扉が、一斉に開く。
どの先にも、同じ校門が見えた。
新しかった頃の校門。
廃校になったあとの校門。
解体工事の始まった校門。
いつだって、この看板が立っていた場所だ。
『かえりたい』
初は溜息混じりに眼鏡を掛け直した。
「それは無理だ。お前が帰る場所はもうなくなった」
陽向が息を呑む。
看板の絵から、子供の姿が消えた。
代わりに看板が真っ黒に塗り潰される。
同時に、廊下全体が大きく揺れ始めた。
「夜鷹さん、もう少し言い方があるでしょう!」
「嘘をついても仕方ないだろ」
『かえりたい』
「この学校はなくなる。子供も戻ってこない。元の場所へ戻しても、前と同じにはならない」
壁に亀裂が走る。
天井から粉塵が落ちる。
すべての扉の向こうで、校門が崩れ始めた。
「夜鷹さん!」
「少し黙ってろ」
初は崩れていく景色を見ながら、看板へ歩み寄る。
「帰る場所がなくなったなら、新しく決めればいい」
揺れが弱まった。
陽向が初を見る。
「新しく……?」
「お前は人を帰すのが役目なんだろ」
看板は何も答えない。
「だったら、ここじゃなくてもできる」
初は看板の前にしゃがみ込んだ。
「ただし、勝手に人の心を読んで道を作るのはやめろ。人間は面倒だから、帰りたい場所と帰るべき場所が同じとは限らない」
初の自宅へ続いていた扉が、小さく閉じた。
小さな揺れも、やがて止まった。
「本人が助けを求めた時だけ、道を教える。それを役目にしろ」
鑑定局の仮眠室へ続く扉も閉じる。
「町に新しい置き場所を用意させる。雨風をしのげて、毎日人が通る場所だ」
封鎖線へ続く扉だけが残った。
「そこでなら、迷った奴を帰してやれる」
看板に描かれた子供が、再び現れる。
今度は一人ではなかった。
その隣に、道を指さす小さな標識が描き加えられている。
『おうちへ?』
「そう」
初は頷いた。
「帰りたい奴が、自分で帰る場所を決めた時だけな」
長い沈黙が落ちた。
やがて、看板の文字がゆっくりと変化していく。
『おうちへかえろう』
その下に、新しい一文が浮かび上がった。
『みちをきいてね』
陽向が目を見開く。
「対話が成立した……」
「まだだ」
初は看板を見つめた。
「これは提案しただけ。協定にするなら、町側の同意と条件の確認が必要になる」
「急に現実的ですね」
「そこを雑にすると、あとで仕事が増える……」
「結局、理由はそれですか」
看板の足元に、一本の道が現れた。
まっすぐ封鎖線へ続く道だった。
初は立ち上がる。
「とりあえず戻るぞ」
「行方不明者の確認が先です」
「外で数えればいい」
「看板の異能やルールも、まだ検証が必要です」
「それも、外でやればいい」
「鑑定書も作らないと」
「それはお前が――」
「夜鷹さんも書くんです」
「……やっぱり、まだここにいた方がマシかもしれない」
二人は正しい道へ足を踏み入れる。
背後で、無数の廊下がゆっくりと消えていく。
最後に残ったのは、夕焼けに染まる校門と、その前に立つ古びた看板だった。
『よい子のみなさん』
穏やかな放送が響く。
『暗くなる前に、おうちへ帰りましょう』
今度の声に、焦りはなかった。
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