第4話
二人が道を抜けると、そこは町の入口だった。
封鎖線の前には、警察官や鑑定局の職員、それに避難していた住民たちが集まっている。
初と陽向が現れた瞬間、周囲から安堵の声が上がった。
「夜鷹さん! 草谷さん!」
現場を管理していた職員が駆け寄ってくる。
「無事でしたか。中との通信が完全に途絶えて――」
「行方不明者は?」
陽向が尋ねる。
「今のところ二十四名が戻っています。皆、多少の混乱はありますが、目立った外傷はありません」
「二十四……?」
陽向は端末を取り出し、名簿を確認した。
行方不明者は、住民二十三名と観測員二名。
合計二十五名。
「一人足りません」
「誰?」
「観測課の三枝さんです」
初が眉を寄せる。
「病院へ行くって言ってた人?」
「その人は戻っています。もう一人の観測員です」
職員が慌てて周囲を確認する。
「確かに、戻ってきていません」
陽向は振り返った。
今しがた二人が出てきた道は、すでに消えている。
そこには町へ続く、ごく普通の道路しかなかった。
「もう一度入らないと」
陽向が封鎖線へ向かう。
初はその襟首をつかんだ。
「待て」
「一人残ってるんですよ!」
「分かってる」
「だったら――」
「帰る場所を決められない奴は、外へ出られない」
陽向が動きを止める。
これまで救出した者たちは皆、自分が今帰る場所を選んだ。
過去ではなく、現在の自分が向かう場所を口にしたことで、外へ続く道が現れた。
まだ戻っていない観測員は、それができていない。
「でも、放ってはおけません」
「誰も放っておくとは言ってないだろ」
初は眼鏡を外した。
ぼやけた町並みを見渡す。
感情は人の姿に重なるように見える。
安堵。恐怖。混乱。家族と再会した喜び。
その中に、一つだけ異質なものがあった。
強い困惑。
焦り。
そして、どこへ行けばいいのか分からないという、途方に暮れた感情。
「いた」
「どこです?」
「すぐそこ」
初が指さしたのは、封鎖線のすぐ脇だった。
誰もいないように見える。
だが、陽向が目を凝らすと、空間がわずかに揺れていた。
「三枝さん!」
陽向が呼び掛ける。
「聞こえますか!」
返事はない。
初は眼鏡を掛け直し、揺らいでいる場所へ歩み寄った。
「帰る場所がないのか?」
しばらくして、かすかな声が返ってきた。
『……分からないんです』
男性の声だった。
『家には誰もいない。実家とは絶縁している。鑑定局に戻ったって、また仕事が待っているだけで……』
「分かる。帰りたくなくなるよな」
「共感しないでください」
陽向が初の背中を小突く。
『どこを選んでも、帰る場所だと思えないんです』
初は頭を掻いた。
「じゃあ、帰らなくていい」
「夜鷹さん?」
『え……』
「帰る場所を選べないなら、行きたい場所を選べばいい」
空間の揺らぎが小さくなる。
「飯を食いたいでも、風呂に入りたいでも、誰かに会いたいでもいい。今から自分が行く場所を一つ決めろ」
『そんなことで……』
「帰る理由なんて、そんなことでいい。家に帰ってベッドで眠りたい。それだけの望みでも道は開けた」
「夜鷹さん……」
隣からの冷ややかな視線に、初は肩を竦める。
「自分で口にして、自分で進むなら、あいつも分かる」
長い沈黙のあと、声が答えた。
『……駅前の店で、ラーメンを食べたいです』
「弱ってる時に重いものを選ぶなあ」
「いいじゃないですか、本人が決めたんですから」
『いつも仕事帰りに寄ってる店なんです。店主が、何も聞かずに水を出してくれて……』
空間の揺らぎが、ゆっくりと人の形へ変わった。
鑑定局の制服を着た男性が、道路の脇に立っている。
顔色は悪いが、怪我はない。
「三枝さん!」
陽向が駆け寄る。
その背後で、町の奥から下校放送が聞こえた。
『よい子のみなさん』
わずかな雑音。
『暗くなる前に、おうちへ帰りましょう』
そして最後に、小さな声が付け加えられた。
『みちをきいてね』
初は町の方を振り返った。
「お、学習したな」
「適応したと言ってください」
行方不明者全員の生存が確認されたあと、初と陽向は町の役場職員、警察、鑑定局の現場責任者を交えて協議を行った。
原因となった看板を、再び廃校の校門へ戻す案は却下された。
学校はすでに廃校となり、校舎も老朽化している。
看板のためだけに建物を維持することは難しく、何より、元の場所へ戻すだけでは同じ異能が再発する可能性がある。
代わりに、町の中心部にあるバス待合所の脇へ、看板の新しい設置場所を用意することになった。
屋根があり、毎日人が行き交い、道に迷った者が助けを求められる場所。
町は看板を定期的に清掃し、破損した場合には修繕する。
看板は、自ら人の感情を読み取って道を作り替えてはならない。
迷った者が明確に道を尋ね、自分の行き先を口にした場合に限り、安全な道を示す。
その条件で、正式に協定を結ぶ予定だ。
「強制力がどの程度あるかは、継続して確認する必要がありますね」
陽向は役場の会議室で、端末に条件を打ち込んでいく。
「異能の発動条件も、まだ完全に解明できたわけではありません。看板へ直接道を尋ねる必要があるのか、声に出すだけでいいのか。それから、案内可能な距離や人数も――」
「……それ、今日全部やる? 今から?」
「できる限り検証します」
「もう夜なんだけど」
「だから泊まりになるかもしれませんね」
「聞いてない……」
「今、僕が決めました。誰かがやらないと終わりませんから」
初は机に突っ伏した。
「帰りたい……」
「あまり強く願うと、また異能が発動するかもしれませんよ」
初はぴたりと口を閉じた。
陽向がわずかに笑う。
「効きますね、それ」
「後輩が先輩を脅す気か」
「仕事をしてください」
協定の内容がまとまる頃には、時計の針は午後九時を回っていた。
看板は廃校から運び出され、仮の設置場所へ移された。
看板の絵には、黄色い帽子をかぶった子供と、その隣で道を指す標識が描かれている。
下に記されていた文も変わっていた。
『くらくなるまえに、おうちへかえろう』
その下には、小さな文字が増えている。
『みちをきいてね』
陽向はその前に立ち、試しに尋ねた。
「神格鑑定局の車は、どちらですか?」
看板に描かれた標識の矢印が、ゆっくりと右へ動いた。
その先には、鑑定局の車両が停まっていた。
「成功です!」
「見れば分かる」
「もっと喜んでくださいよ」
「やっと帰れることは喜んでる」
陽向は端末へ結果を記録した。
「異能は案内を求めた者に対し、安全な経路を示す。現時点では空間の接続ではなく、既存の道を視覚的に示しているように見えます」
「暴走していた時より、だいぶ弱くなってるな」
「制限を受け入れた結果でしょうか」
「それか、今までが焦って力を使いすぎてただけか」
初は看板の前へしゃがみ込んだ。
「おーい。聞こえてる?」
描かれた子供の顔が、わずかに初へ向く。
「これから、お前が何者か決める」
陽向の表情が引き締まる。
鑑定は、ただ調査結果を紙へ記す作業ではない。
鑑定局が協定を結んだ大神『折神』の異能によって、鑑定対象に対する社会の認識と、その異能はゆるやかに固定される。
どんな言葉を選ぶかによって、看板の今後のあり方が変わる可能性がある。
人を迷わせる呪いの看板。
帰れない者を閉じ込める怪異。
そう記せば、看板はそのような存在になってしまうかもしれない。
「現時点での仮鑑定だ。疑似神格。分類は呪物」
初はゆっくりと口にする。
「異能は、道に迷った者から求められた場合、目的地へ至る安全な経路を示すこと」
看板の文字が、淡く光る。
「等級は四級か五級」
今回、異能は廃校を中心に、小さな町のほぼ全域に影響を及ぼした。
その事実に基づけば、そのあたりが妥当だろう。
「人間に対する積極的な敵意は確認できない」
看板の絵に描かれた子供が、標識の隣に立って初を見上げている。
「お前は、人を閉じ込める怪異じゃない……」
初は眼鏡を外した。
看板から見える感情は、まだ少し不安定だった。
けれど、最初に見た焦りや恐怖は薄れている。
「帰る道を教える神格だ」
その言葉を告げた瞬間、看板から柔らかな光が広がった。
夜になり、辺りの街灯が一斉に灯る。
複雑に入り組んでいた町の道路は、すでに元の姿へ戻っていた。
「まあ、これはあくまで仮の鑑定。……そうありたければ、イタズラせず大人しくしていろってことだ」
看板に浮かんでいた不安が、ゆっくりと消えていく。
残ったのは、安堵と、少しの誇らしさだった。
初は眼鏡を掛け直す。
「これでいい?」
看板に描かれた矢印がくるりと動く。
神格鑑定局の車がある方向ではなく、初の真後ろを指した。
振り返ると、陽向が大量の書類を抱えて立っている。
「えっ、嘘」
「次は報告書です」
「よくないって言ってる」
「看板のせいにしないでください」
神格鑑定局の本部へ戻ったのは、日付が変わる少し前だった。
陽向は車内でも眠らず、現場で記録した内容を整理していた。
一方の初は、出発して五分で眠った。
到着すると陽向に叩き起こされ、そのまま調査課の執務室へ連れていかれる。
深夜の室内には、まだ多くの職員が残っていた。
電話の音。キーボードを打つ音。紙をめくる音。
神格事件に昼夜は関係ない。
初にとっては、迷惑極まりない話だった。
「夜鷹さん、鑑定書の最終確認をお願いします」
陽向が端末を差し出す。
「明日」
「提出期限は今日です」
「もう今日が終わるだろ、ほらあと十分で……」
「今日中に出してください」
「無理」
「ダメです」
初は仕方なく端末を受け取った。
画面には、陽向がまとめた詳細な鑑定書が表示されている。
発生した異常。
聞き取りの内容。
異能の発動条件。
帰る場所が複数ある者に対する影響。
行方不明者の救出経緯。
看板との対話。
協定内容。
今後必要となる継続観測。
初が口頭で伝えた内容も、ほとんど正確にまとめられていた。
「やっぱりお前、現場より書類仕事の方が向いてるよ」
「ん? 褒めてます? 貶してます?」
「本部から出なくても活躍できるって言ってる」
「嫌です。僕は現場でカミサマと対峙したいんです」
「看板で満足しておけ」
「いつか、もっと強大なカミサマを鑑定したいです」
「やめとけ。面倒が増えるだけだから」
初は文章を最後まで確認し、電子署名を入れた。
「これで終わり」
「お疲れさまでした」
「仮眠室行く」
「自宅に帰らないんですか?」
「もう動きたくない」
「帰巣本能はどうしたんです」
「ない」
初は椅子から立ち上がり、仮眠室へと足を向ける。
今からなら三時間、いや、粘れば四時間は眠れる。
明日の仕事は、起きてから考えればいい。
できることなら、昼まで誰にも見付からずにいたい。
そう願いながら執務室の出口へ向かった時、初と陽向の端末が同時に鳴った。
鋭い警報音。
緊急案件を知らせる通知だった。
「観測課からです」
「無理無理無理」
陽向がすぐに端末を開く。
初は見なかったことにして歩き続ける。
「夜鷹さん」
「聞こえない」
「まだ何も言ってません」
「俺には分かる。絶対ろくでもない話だ」
「緊急性が高い案件のようです」
「明日勤務の奴に任せろ」
「対象の情報は、今のところ一行だけです」
「読むな」
陽向が画面を見つめる。
その表情から、血の気が引いた。
「夜鷹さん」
「読むなって」
「なんか『空に太陽が二つあります』……って」
初の足が止まった。
頭痛を堪えるように片手で額を押さえ、次に天井を仰ぎ、深く息を吸って、吐く。
そして、すぐに自分の席へ戻る。
「夜鷹さん?」
陽向は目を瞬かせた。
これほど大きな異常を前にして、初が自ら仕事へ戻るとは思わなかったらしい。
「僕、すぐに資料を集めます! 観測課への確認と、既存の太陽神に関する登録情報も――」
初は黙って端末を起動した。
神格事件の登録画面を閉じる。
鑑定書の作成画面も閉じる。
代わりに、局内文書の一覧を開いた。
迷いのない操作で一つの様式を選択する。
画面の中央に、大きな文字が表示された。
『退職届』
「ちょ、夜鷹さん……それ違」
「止めるな、草谷。物事には限度っていうものがある。無理だ」
「止めますよ!」
初は今日一番の真剣な表情で、自分の名前を入力していた。
お読みいただきありがとうございます。
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