第2話
振り返っても、戻る道はもうどこにもない。
「……い、今、道が消えましたよね」
「そうだな」
「なんでそんなに冷静なんですか」
「慌てたら道が戻るのか?」
「多分、戻りませんけど」
「じゃあ慌てるだけ損だろう」
初は気にした様子もなく歩き続ける。
道の両脇には背の高い木々が並んでいた。
山へ続く道路とはいえ、先ほどまでは民家が点在していたはずだ。だが、振り返っても町の建物は一つも見えない。
代わりに、見覚えのない石垣が続いている。
石の表面は黒ずみ、隙間から雑草が伸びていた。
長い間手入れされていないことは分かるが、それにしても不自然だった。
陽向が携帯端末の地図を確認する。
「地図では、この辺りに道は無いことになっています」
「もう、さっきから存在しない道ばっかり歩いてるだろ」
「そうですけど……」
「今の方角は?」
「北西です。まっすぐ進んでいます」
「ならいい」
初は陽向の持つ端末よりも、その顔を見る。
表情には緊張が浮かんでいた。
しかし、怯えて動けなくなるほどではない。
「怖い?」
「少しは」
陽向は素直に答えた。
「帰った方がいいんじゃない?」
「怖いって言っただけでしょう」
「正しい感覚は大事だぞ」
「夜鷹さんにもあるんですか?」
「ああ。帰りたいっていう正しい感覚が」
「それは知ってます」
陽向は呆れたように答えた。
しばらく進むと、木々の向こうに金網が見えた。
ところどころ錆び、蔦に覆われたフェンスだった。
その先には、広い土の地面と、横に長い古びた建物がある。
校庭。
そして、三階建ての校舎。
窓ガラスの多くは外され、壁の一部には足場が組まれている。解体の途中で作業が止まったらしい。
「学校……」
陽向が呟く。
校門には学校名を刻んだ石柱が残されていたが、表面は削られ、文字を読むことはできなかった。
「資料にありました。八年前に廃校になった町立小学校です。児童数の減少で隣町の学校と統合されて、その後は倉庫として使われていたそうです」
「最近まで残ってたのか?」
「今月から解体工事が始まっています」
「……異常が始まったのは、昨日だったな」
「解体工事中に、何かを動かした可能性がありますね」
陽向は鞄から手袋を取り出す。
現場の状態を記録するために端末を構え、校門や校舎を撮影し始めた。
「廃校になったのは八年前。解体が始まったのは今月。昨日の作業内容を確認すれば――」
「草谷」
「はい?」
「誰かいる」
初の視線は校舎ではなく、校庭の中央へ向けられていた。
人影が一つ、土の上に立っている。
数秒前には誰もいなかったはずの、その場所にだ。
灰色の作業着を着た男だった。
年齢は四十代くらい。こちらへ背を向けたまま、微動だにしない。
「すみません!」
陽向が声を掛けた。
「神格鑑定局です! 聞こえますか!」
返事はない。
男はただ、校舎を見上げている。
陽向がそちらへ近付こうとした瞬間、初が肩をつかんだ。
「待て」
「どうしてです?」
「地面」
陽向は足元へ目を落とす。
二人の立っている場所から男のもとまで、無数の足跡が続いていた。
どれも男自身の靴跡に見える。
だが、校庭へ入っていく足跡と、校門へ戻ってくる足跡が幾重にも重なり、同じ場所を延々と往復していた。
男は立ち止まっているのではない。
歩き続けている。
それなのに、前へ進んでいないのだ。
「校舎を解体していた作業員かもしれません」
「可能性はある」
「助けないと」
初は眼鏡の奥から男を見つめる。
「声は届いてるみたいだけどな。迂闊に近付くのは……」
どうにも、嫌な予感しかしない。
男の肩がわずかに震えている。
こちらの呼び掛けが聞こえてはいるが、振り返れないようだ。
「夜鷹さん。どうします?」
「とりあえず、あの人が何を考えてるか聞く」
「聞けるんですか?」
「直接は無理だな」
初は眼鏡を外した。
視界が一気にぼやける。
校舎も男の姿も、輪郭を失って溶けていく。
その代わり、男のいる辺りに濁った色が浮かんだ。
強い焦り。
混乱。
疲労。
そして、そのすべてを覆うような、懐かしさ。
それに焦がれる気持ち。
初は眉を寄せる。
「何が見えます?」
「んー、帰りたがってる」
「やっぱり、この異常は帰りたい人を――」
「いや、違う」
初は男から目を逸らさない。
「この人が帰りたがってる場所は、町の外じゃない」
ぼやけた男の向こう側に、別の感情が重なって見える。
焦点を合わせるように、双眸を細めた。
郷愁。
安心。
悲しみ。
それらは校舎の方角から漂っている。
「たぶん、この学校だ」
「えっ……学校に帰りたがっている?」
「そう『思わされている』可能性もあるけど」
眼鏡を掛け直すと、はっきりした視界が戻る。
まだ情報が曖昧すぎて、何も言えない。
初は校門の前へ立ち、男を正面に捉えた。
「草谷。あの人はどっちへ歩いてる」
「校舎の方向です」
「方角じゃなくて」
「え?」
初は言葉を探すように僅かに眉根を寄せ、それから男を指差す。
「本人が進みたがっている方向と、実際に進んでる方向は同じだろうか?」
陽向はじっとその男へと意識を集中させた。
「……いいえ、違います」
「そうか」
「身体は北を向いています。でも、移動しようとしている方向は……南東です」
「俺たちが来た町の入口か」
「はい」
初は男の足跡を見る。
校舎へ向かっているように見えるが、実際には町の外へ帰ろうとしている。
それでも異常によって道を曲げられ、校舎へ近付き続けているのだ。
「帰りたい場所が二つある。だから迷っている」
「現在の家と、この学校ですか?」
「そう」
初は校門の内側へ一歩踏み出した。
景色が揺れる。
目の前にあった校庭が、一瞬だけ別の場所へ変わった。
古い廊下。
木製の靴箱。
並べられた黄色い傘。
次の瞬間には、元の校庭へ戻る。
「夜鷹さん?」
「今、何か見えた?」
「……いえ」
「俺には校舎の中が見えた」
「過去の風景でしょうか」
「誰かの記憶かもしれない」
初はもう一歩進む。
陽向もその背中を追った。
再び景色が変わった。
今度は教室だった。
小さな机が並び、黒板には白いチョークで日付が書かれている。
窓から夕日が差し込んでいた。
子供たちの声がする。
だが、顔は見えない。
全員が席を立ち、教室の出口へ向かっている。
『さようなら』
『またあした』
『寄り道しないで帰るのよ』
教師らしい女の声が響く。
そして、先ほどと同じ放送が流れた。
『よい子のみなさん。暗くなる前に、おうちへ帰りましょう』
初は足を止めた。
「この声が『道』を作っている……?」
「放送そのものが神格なんでしょうか」
「そう、すぐに決めるな」
異常な現象が起きているからといって、最初に目についたものが原因とは限らない。
放送は異能の一部かもしれないし、別の神格が利用しているだけかもしれない。
不確かな段階で分類を決めつけるのは、鑑定士として最も避けるべきことの一つだった。
鑑定は、ただ名前を付ける作業ではない。
鑑定局が神格をどう定義し、社会へどう伝えるか。
その認識は、折神の異能によって神格そのものへゆるやかに作用する。
誤った鑑定は、対象を誤った形へ固定してしまう可能性がある。
だからこそ、神格の多くは鑑定士を嫌う。
初もまた、確証のない言葉を口にすることを好まなかった。
「今の段階では、異能の発動条件に放送が関係してる。それだけ」
「はい」
「……さて、あの人を引っ張り出すか」
初は陽向を見る。
「町の入口は、ここからどっちだっけ?」
「南東です」
「校舎は?」
「北です」
「じゃあ、南東を指し続けろ」
「それだけですか?」
「そっちへ呼べ。本人が進む方向と、お前が示す方角を一致させる」
「分かりました」
陽向は校門の前に立ち、腕を伸ばした。
「こっちです!」
男へ向かって声を張る。
「町の入口はこっちです! あなたの帰る方向は、こっちです!」
男の身体が大きく揺れた。
ゆっくりと、首が動く。
こちらを振り返ろうとしている。
「もう少しだ」
初も呼び掛ける。
「学校はもう終わったぞ」
男の動きが止まった。
「授業も仕事も終わり。帰っていい」
土を踏む音が聞こえた。
一歩。
男の足が、こちらへ向く。
その瞬間、校庭全体が大きく歪んだ。
校舎が新しい姿へ変わる。
割れていた窓にはガラスが戻り、白く汚れていた壁は鮮やかな色を取り戻す。
校庭に子供たちが現れた。代わりに先ほどの男の姿が見当たらない。
何十人もの子供が、初と陽向を取り囲むように立っている。
顔はない。
のっぺりとした肌の上に、目も鼻も口も存在しなかった。
「よ、夜鷹さん……!」
「騒ぐな。見えてる」
子供たちは一斉に首を傾げた。
『まだ、かえってない』
声が重なる。
『かえらなくちゃ』
『おうちへ』
『かえらなくちゃ』
陽向が一歩後退する。
「て、敵意はありますか?」
初は眼鏡を額の位置まで押し上げた。
子供たちの輪郭がぼやける。
そこに浮かんでいるのは、怒りではない。
憎しみでも、殺意でもない。
不安。
焦燥。
使命感。
そして、置き去りにされた子供のような寂しさ。
「悪意はない」
「本当ですか?」
「……たぶん」
「じゃあ、どうして人を閉じ込めるんです?」
「閉じ込めているつもりはないんだろう」
初は子供たちの向こうへ目を凝らす。
校舎の玄関付近から、ひときわ強い感情が見えていた。
帰したい。
帰さなければならない。
暗くなる前に。
迷わないように。
一人残らず。
しかし、その感情の奥には別のものがある。
帰りたい。
自分も帰りたい。
初は眼鏡を掛け直した。
「違う。原因は校舎じゃない」
「では、あの放送設備ですか?」
「いや、もっと小さい……」
初は玄関の脇を指さした。
解体作業で外された資材が積み上げられている。
机。
椅子。
錆びた掃除用具。
折れた校門の標識。
その一番奥に、古びた看板が立て掛けられていた。
黄色い帽子をかぶった子供の絵。
子供の手を引く、大人の姿。
色褪せた文字が、その下に残っている。
『くらくなるまえに、おうちへかえろう』
「あれだ」
初が言った。
陽向は看板と、周囲に立つ顔のない子供たちを見比べる。
「看板が神格……?」
「驚くほどじゃないだろ。ネジやトースターだってたまに神格になる」
「そうですけど」
「昨日、あれを校門から外したんじゃないか」
看板は長年、学校の入口に立っていた。
子供たちが登校する姿を見守って。
下校する姿を見送って。
毎日、暗くなる前に家へ帰るよう呼び掛けていた。
学校は廃校になった。
それでも看板は残されていた。
そして昨日、解体工事によって校門から取り外された。
「自分の役目を続けてるだけだ」
初は静かに言う。
「でも、学校はなくなった。子供もいない。見守るべきものを、どこへ帰せばいいか分からない」
だから、町にいる人間の中から「帰りたい」という感情を探した。
強引にその人が望む場所へ道をつなげようとした。
だが、人間にとっての『帰りたい場所』は一つではない。
今住んでいる家。
生まれ育った家。
家族のいる場所。
友人と遊んだ場所。
もう二度と戻れない思い出の中。
帰りたい場所がいくつもある者は、その数だけ道を分けられる。
「人間の『帰りたい』を、単純に考えすぎてる」
「その結果、どこにも戻れなくなった?」
「恐らく」
陽向は看板を見つめた。
「なら、あれを元の場所へ戻せば異能は止まりますか?」
「——とは、いかないだろうな」
「どうしてです?」
「この場所は、もうあれが守りたい場所じゃない」
校舎は解体される。
子供たちも戻ってこない。
看板を校門へ立て直したとしても、失ったものまで元に戻るわけではない。
「それに」
初は看板の方へ目を向けた。
「帰りたいのは、あいつも同じだ」
顔のない子供たちが、一斉に初を見る。
『かえりたい』
小さな声が重なった。
『おうちへ』
『かえりたい』
初が露骨に顔を顰めた。
「……マズいな」
校庭の景色がまた揺れる。
夕日は急速に沈み、空が、風景が、赤黒く染まっていく。
学校中のスピーカーから、耳を刺すような雑音が響いた。
『よい子のみなさん』
酷く割れた声が聞こえた。
『暗くなる前に』
校門が、沈んで消えた。全てが歪んでいく。
『おうちへ』
フェンスも、道路も、山も消えていく。
『帰りましょう』
気付けば二人は、無数の廊下が交差する校舎の中に立っていた。
どの廊下も同じ形をしている。
同じ扉。
同じ窓。
同じ靴箱。
そのすべてが、別々の方角へ延びていた。
窓には場違いに穏やかな夕陽が映り込んでいる。
陽向が息を呑む。
「こ、これは……」
只事ではない。それだけは分かる。
「はーーーー」
「溜息、デカいですね……」
初は上着の内ポケットから眼鏡拭きを取り出し、レンズを拭いた。
「日が暮れる前に終わらせるぞ」
「急に真面目ですね」
「暗くなったら、もっと帰れなくなりそうだろ」
「最初から真面目にやってください!」
陽向の声が、無数の廊下へ反響する。
その直後、遠くから誰かの叫び声が聞こえた。
「助けてくれ!」
成人男性の声だった。
続いて、別の方向から女の泣き声。
さらにその奥から、子供の笑い声が重なる。
行方不明者たちは、まだこの空間のどこかにいる。
初は耳を澄ませた。
「コンパス」
「草谷です」
「町の入口は」
陽向は目を閉じる。
すぐに目を開き、困惑した表情を浮かべた。
「ぜ、全部です」
「は?」
「どの道も、町の入口の方角へ続いています」
初は目の前に広がる無数の廊下を見渡した。
どれも出口へつながっている。
そしておそらく、どれも違う『帰る場所』へつながっている。
「なるほど」
「分かったんですか?」
「面倒なことになったってことだけは」
「それは僕にも分かります」
初は深く息を吐き、看板があったはずの方向へ顔を向けた。
「まず、迷子を全員見付ける」
「はい」
「次に、あの看板と話をする」
「対話できるんでしょうか」
「まあ、できなきゃ、できるようにする」
神格を調べ、異能のルールを見極める。
必要ならば対話し、人間社会と共存できる形を探す。
それが神格鑑定士の仕事だった。
初は面倒そうに頭を掻く。
「やっぱり、来なきゃよかった」
「今さらですか」
「今からでも帰りたい……」
その言葉に反応するように、正面の廊下が大きく歪んだ。
「あっ」
突き当たりに、初の自宅の玄関が現れる。
初は迷わずそちらへ歩き出した。
「夜鷹さん!」
「俺の家だ」
「分かってます! 戻ってください! どう考えてもそれは罠です!」
「でも、俺の家だ。帰りたい」
「仕事! してください!」
陽向は初の上着をつかみ、全力で引き戻した。
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