第1話
神格鑑定士、夜鷹 初の朝は遅い。
正確に言えば、朝が来ても始まらない。
遮光カーテンを閉め切った一室で、初は布団に深く潜り込んでいた。枕元では携帯端末が震え続けている。着信音はとうに止まり、今は短い通知音が一定の間隔で繰り返されていた。
初は布団の隙間から片手だけを出し、端末をつかんだ。
画面には不在着信が十一件。
すべて同じ名前からだった。
「……怖」
草谷 陽向。
三か月前、半ば強制的に組まされた新人鑑定士である。
無遅刻無欠勤。規則には忠実。仕事への熱意に満ちあふれ、まだ見ぬ強大な『カミサマ』との対峙を夢見ている。
この世界では、なんらかの異常な現象を引き起こす生物、あるいは無生物を総じて『神格』と呼ぶ。
太陽を司る神も、少し先の天気を読める人間も、果ては絶対に回らないネジまで、神格という大きなくくりの中では同類だった。
彼らが引き起こす異常な現象は、神威や妖力、超能力など様々な名前で呼ばれているが、神格鑑定局では一律に『異能』と呼称している。
その神格の中でも、強大な異能を持ち、人間社会に有益であると鑑定された一部の神格だけが、『カミサマ』として扱われる。
つまり陽向は、ただ神に会いたがっているのではない。
その辺にある異常現象の類では満足せず、国家や社会の行く末すら左右するような大物との遭遇を望んでいるのだ。
できるだけサボっておきたい初とは、致命的に相性が悪かった。
端末が再び震え始める。
初は迷わず電源を切り、布団の奥へ戻った。
その直後、玄関の呼び鈴が鳴った。
一度。
二度。
三度。
やがて連打に変わる。
「夜鷹さん! 起きてください!」
扉越しでも分かる、無駄に張りのある声だった。
「緊急任務です! もう車が来てます!」
初は目を閉じたまま、掠れた声で答えた。
「留守です」
「居留守バレてますよ!」
声など聞こえていないはずなのに、なぜか返事がくる。
面倒な新人である。
初はさらに布団を頭まで引き上げたが、直後に玄関の鍵が開く音がした。
数秒と経たず寝室の扉までもが開かれる。
思わず身を起こす。
「……おい」
「管理人さんに事情を話しました」
寝室の扉が開き、きっちりとスーツを着込んだ陽向が顔を出した。
短い髪は整えられ、肩には資料の入った鞄が掛けられている。すでに出勤してから一仕事終えたような顔をしていた。
一方の初は、よれたシャツに寝癖だらけの髪、眼鏡すら掛けていない。
「国家機関の職員が職権を乱用して人の家に入るなよ」
「緊急時です」
「人権侵害だ」
「寝坊している人を起こしただけです」
「睡眠権の侵害……」
「そんな権利は知りません」
陽向は枕元に置かれていた眼鏡を拾い、初へ差し出した。
「早く準備してください」
初は目を細めた。
裸眼では、陽向の顔はぼんやりとしか見えない。
代わりに、その輪郭に重なるように感情が見えていた。
焦り。緊張。期待。
その奥に、ほんの少しだけ恐怖がある。
感情の可視化。
これが初の持つ異能だった。
この世界において、異能を持つ人間は決して珍しい存在ではない。
神格鑑定士に限って言えば、資格を持つ者のほとんどがなんらかの異能か、それに匹敵する特殊な技術を有している。
初は眼鏡を受け取り、掛けた。
感情は見えなくなり、代わりに陽向の険しい顔がはっきりする。
「俺じゃなくてもいいだろう」
「現地に入った観測員との連絡が途絶えています」
「その先を確認するのも観測課の仕事じゃないの」
「異常の発生範囲が広がっている可能性があります。調査課の案件として正式に登録されました」
「……誰か適当に行かせればいい」
「課から夜鷹さんを指名されています」
「人選ミスじゃん」
「僕も同行します」
「致命的な人選ミス……」
陽向の眉間にしわが寄る。
「いいから着替えてください!」
「……仕事、辞めたい」
十五分後。
初は陽向に急かされるまま、神格鑑定局の車両へ押し込まれた。
朝食はない。髪も完全には直っていない。ネクタイは鞄の中に突っ込んだままだ。
助手席に座った陽向が、後部座席の初へ資料を渡す。
「現地は県北部の山間にある町です。昨日の夕方から、道路や建物の位置が変化する異常が報告されています」
「建築基準法違反?」
「異能の可能性が高いです。真面目に聞いてください」
初は資料を顔の上に載せた。
「聞いてる」
「見てください」
「目を閉じた方が集中できるタイプなんだ」
「今にも寝そうなタイプでしょう」
実際、そのつもりだった。
陽向は諦めずに説明を続ける。
「町へ入った車両が、どの道を選んでも同じ交差点へ戻されます。建物の配置も、住民の証言と地図で一致しません。昨日派遣された観測員二名が消息不明。遠隔視も安定せず、映像には同じ道路ばかりが映っています」
初たち調査課の神格鑑定士に求められるのは、異常を力ずくで排除することではない。
まず、その現象が本当に異能によるものなのかを確認する。
異能であるなら、それを引き起こしている神格を特定する。
異能の効果や発動条件、神格自身が従っているルール、人類に対する姿勢を調べ、その分類と等級を定める。
そして必要であれば、異能を避ける方法を考え、神格との協定を結び、封印し、あるいは最終手段として撃滅する。
一般には怪異と戦う華々しい仕事だと思われがちだが、実際には聞き込みと検証、それに報告書の作成が大半を占める。
初がこの仕事を嫌がる理由の半分くらいは、最後の報告書だった。
「死者は」
「確認されていません」
「重傷者」
「いません」
「……帰ろう」
「帰りません」
即答だった。
初は資料を少しだけ持ち上げ、その下から陽向を見る。
「人間コンパスのくせに融通が利かないな」
「その呼び方、やめてください」
「いつでも方角が分かるんだろ?」
「僕には草谷という苗字があります」
「長い」
「四文字です」
「……人間コンパスは七文字か」
「数えてから言ってくださいよ!」
陽向は小さく咳払いを挟んでから、初へと視線を戻す。
「今回のような空間異常では、僕の異能が役立つ可能性があります」
「便利だな、コンパスくん」
「草谷です。どうせ四文字なのになんで?」
車は高速道路を降り、山道へ入った。
窓の外を流れる建物は少なくなり、やがて深い緑ばかりになる。
初は今度こそ眠ろうとしたが、陽向が資料を読み上げ続けるので眠れなかった。
町へ到着したのは、昼前だった。
入口には警察車両と鑑定局の車が数台停まっていた。道路は封鎖され、住民の出入りも制限されている。
しかし、遠目に見る町はひどく平凡だった。
低い住宅が並び、商店の古びた看板が見える。山間の小さな町なら、どこにでもありそうな景色だ。
怪物が暴れているわけでもない。
空が割れているわけでもない。
鳥は鳴き、風も吹いている。
だが、異能の原因が目に見えるとは限らない。
神格は神や妖怪のような姿をしているとは限らず、本人すら自分が神格であると気付いていない場合もある。
今回の異常が一人の人間によるものなのか、道端の石や古びた建物が引き起こしているのか、それすら現時点では分からない。
それを突き止めるのが、鑑定士の仕事である。
「なんかヤバそう、だけで呼び出すなよ……」
初がぼやくと、陽向は真剣な表情で町を見つめた。
「情報が少ないからこそ、調査が必要なんです」
「情報がないまま現場に投げるのを、世間では丸投げって言うんだ」
二人は現場を管理していた職員から簡単な説明を受けた。
異常が確認されているのは町の中心部。現在までに住民二十三名と観測員二名が行方不明。ただし、携帯端末の位置情報は町の中を不規則に移動し続けている。
町から避難してきた住民の証言によれば、道を曲がるたびに見覚えのない場所へ出るという。
「方角は?」
陽向が尋ねる。
「当てにならないそうです。北へ進んだのに南側へ出た、という証言もあります」
陽向の目が輝いた。
「つまり僕の異能なら――」
「人間コンパスが壊れてないか確認できるな」
「壊れてません!」
初は肩をすくめ、封鎖線を越えた。
「とりあえず入るか」
「急にやる気を出しましたね」
「早く入れば、早く帰れる」
「動機が最低」
町の中へ入って十分後。
二人は、同じ交差点へ戻ってきた。
古いクリーニング店。錆びたカーブミラー。赤い郵便ポスト。
どれも、ついさっき見たばかりだ。
陽向は手元の地図と周囲を見比べた。
「おかしいです。僕たちはずっと北へ進んでいました」
「だが南向きの道から戻ってきた」
「方角自体は間違っていません」
「人間コンパス……まさか」
「壊れてません!」
陽向は道の端にしゃがみ込み、地図に現在までの経路を書き込んでいく。
初はその様子を数秒眺めたあと、踵を返した。
「どこへ行くんですか?」
「外」
「調査中ですよ」
「入口の職員に確認したいことがある」
「何をです?」
初は答えず、来た道を引き返した。
数分後。
町の封鎖線の外に立った初は、携帯端末で陽向へ連絡した。
「出た」
『何がですか?』
「町」
『……はい?』
「普通に外へ出られた」
通話の向こうで沈黙が落ちる。
やがて、低い声が返ってきた。
『そこで待っていてください』
「帰っていい?」
『待っていてください!』
十分後、陽向が封鎖線の向こうから現れた。
ひどく疲れた顔をしている。
「同じ道を通ったんですけど、僕は三回交差点へ戻されました」
「日頃の行いじゃないの」
「もう一度入ります」
「俺も?」
「当然です」
陽向は初の腕をつかみ、町へ引き戻した。
その後も同じことが繰り返された。
二人で町へ入る。
陽向と共に歩けば、同じ場所へ戻される。
初が一人で出口を目指すと、初だけが町の外へ出る。
三度目に初が封鎖線を越えたところで、追いついてきた陽向が肩を震わせていた。
「夜鷹さん」
「なに」
「さっきから、何を考えながら歩いてます?」
「質問が漠然としてるな」
「町から出る時です。どこへ行こうとしていました?」
「帰ろうとしてた」
「どこへ?」
「家」
陽向は黙り込んだ。
「どのくらい強い思いで?」
「すっごく帰りたいなって思いで」
陽向のこめかみに青筋が浮かんだ。
「それです!」
「どれ」
「この異常、人の『帰りたい』という感情に反応しているんじゃないですか!?」
初は少し考えた。
「ああ」
「ああ、じゃありません!」
「そうかもしれないな」
「僕が必死に方角を調べている間、夜鷹さんだけ心の底から帰宅しようとしてたんですか!?」
「いや、仕事中はいつもそうだけど」
「その結果、自分だけ毎回町から出てたんですよ!」
「俺の帰巣本能、優秀だな」
「異常を私用で利用しないでください!」
陽向の怒鳴り声が、静かな町に響き渡る。
初は眼鏡を指で押し上げた。
「でも仕組みの一つは分かっただろ。よかったな」
「僕を実験台にして、自分だけ帰ろうとしないでください!」
初は大きなため息をつき、もう一度町の方を振り返った。
誰もいない通りの先で、古い防災放送のスピーカーが小さく鳴った。
雑音に混じって、子供たちの歌声が聞こえる。
そして、聞き取りにくい女の声が告げた。
『よい子のみなさん。暗くなる前に、おうちへ帰りましょう』
初の表情から、わずかに気怠さが消えた。
「草谷」
「はい」
「今の、どっちから聞こえた」
陽向は迷うことなく、一つの道を指さす。
「北西です」
「地図に、学校は?」
「町内に学校はありません。八年前に廃校になっているはずです」
「そう」
初は指された道へ歩き出した。
陽向が慌ててそのあとを追う。
「何か分かったんですか?」
「まだ」
「じゃあ、どうして学校へ?」
「帰れって言ってる奴が、帰れなくなってるのかもしれない」
「……?」
前方の道が、音もなく二つに分かれた。
地図には存在しない道だった。
片方は町の中心へ。
もう片方は、山の方角へ続いている。
初は立ち止まらず、山へ向かう道を選んだ。
「そっちで合ってるんですか?」
「知らない」
「知らないんですか!?」
「方角はお前の担当だろ、人間コンパス」
「だから草谷ですって!」
二人の背後で道が閉じる。
帰り道は、もうどこにも見当たらなかった。
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