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蟹の円環  作者: 山田りく


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第二章 『赤への転位』


そのポケットは、上着の右脇のあたりに、かつて誰かが大雑把に縫い付けたものだった。

サイズは正確に十センチ四方。灰色のデニム生地は薄汚れ、雨と油を吸って硬くなっている。


男――周囲からは「ロクさん」と呼ばれている――がそのポケットに手を突っ込むと、指先がカサリと、乾燥したビニール特有の軽い音に触れた。


指を曲げてそれを挟み、ゆっくりと引き抜く。


黄色いパッケージ。真ん中には、丸い頭の、どこか間の抜けたキャラクターの顔が印刷されている。うまい棒、コーンポタージュ味。


「またこれか」


ロクさんは誰に言うでもなく呟き、高架下のコンクリートに腰を下ろした。


これで今日、六本目だった。なぜこのポケットからうまい棒が出るのか、ロクさんは知らない。知りたくもなかった。

最初は世界のバグだと思った。次に、自分がとうとう狂ったのだと思った。物理法則がどうとか、四次元ポケットがどうとか、そんな大層な理屈はロクさんの人生には関係がない。ただ、手を入れれば、そこにある。それだけだ。


一度、実験のために一分間で何本取り出せるか試したことがある。ポケットに手を入れては引き抜き、入れては引き抜き、足元にうまい棒の山を作った。

だが、三十本目を引き抜いたあたりで、ロクさんは猛烈な吐き気に襲われて作業をやめた。

それは満腹感によるものではなかった。世界から「お前にはこれしか与えない」と、見えない冷たい手で頭を押しつけられているような、強烈な拒絶の感覚――「呪い」の気配だった。


うまい棒は、一本十二円かそこらの駄菓子だ。これを持って高級レストランに行っても追い出されるだけだし、質屋に持っていっても鼻で笑われる。

メルカリで売るためのスマホも、彼にはない。この奇跡は、ロクさんを大富豪にはしてくれない。

ただ、「絶対に飢え死にだけはさせない」という、最低限の、そして一生この社会の底辺に縛り付けるための、残酷な「祝福」だった。


ロクさんはパッケージを破り、黄色いサクサクとした棒を口に運んだ。コーンの甘さと、強い塩気が口いっぱいに広がる。水分を奪われた舌が、かすかに痛んだ。


「うまいなぁ」


ロクさんは涙も流さず、ただ淡々とそれを咀嚼した。


意味なんてない。ただ、腹が減り、ポケットに手を入れたら、これがあった。それだけのことだ。


──────


その変化は、秋の風が一段と冷たくなった火曜日の夜に起きた。


ロクさんは自販機の裏の隙間に身を潜め、冷え切った指先をあの十センチ四方のポケットへと滑り込ませた。


いつものように、軽いビニールの感触。


だが、引き抜いた瞬間、街灯の薄暗い光の下で、ロクさんの動きが止まった。


パッケージが、赤かった。真ん中には、やはりあの間の抜けた丸い顔がある。けれど、そこに書かれた文字は違っていた。


うまい棒、めんたい味。


「……めんたい」


ロクさんはその赤い棒を、まるで未知の爆発物でも見るかのようにじっと見つめた。


なぜだ、と口をつきそうになった言葉を、喉の奥で強引に噛み殺す。理屈は関係ない。そう自分に言い聞かせてきたはずだった。


ポタージュ味が出ることに理由がないのなら、めんたい味が出たことにだって、理由なんてあるはずがない。


袋を破り、口に含む。ツンとした唐辛子の辛味と、魚介の凝縮された旨味が、容赦なく乾いた舌を刺激した。


美味い。コーンポタージュ味の穏やかな甘さに慣れきっていた脳が、その鮮烈な塩気と刺激に、一瞬で覚醒していくのが分かった。


それは、紛れもない快楽だった。

だが、最後の一口を飲み込んだとき、ロクさんの胸を突いたのは、奇妙な恐怖だった。


これまでは、あのポケットは「ただそこにある機械」のようなものだと思っていた。感情も、意志もない、ただのバグ。けれど、もしこれが。


『毎日ポタージュ味ばかりじゃ飽きるだろう』


という、誰かの気まぐれな親切だとしたら?もしもこのポケットの向こう側に、自分を観察し、時折メニューを変えて楽しんでいる「誰かの視線」があるのだとしたら。


ロクさんはガタガタと震え出した。それは夜風の寒さのせいだけではなかった。ただの現象だと思っていれば、呪いとして受け入れることができた。


だがそこに、他者の「意味」や「意図」が介在しているかもしれないと気づいた瞬間、ポケットはただの布切れから、自分を覗き込む巨大な「目」へと変貌してしまった。


次の日、恐る恐るポケットに手を入れると、出てきたのはいつもの黄色いコーンポタージュ味だった。ロクさんは心の底から安堵した。


しかし、そのさらに三日後。忘れた頃に、またあの赤いパッケージが指先に触れた。今やロクさんは、ポケットに手を入れるたび、小さな賭けをするようになっていた。黄色か、赤か。ただ飢えを満たすためだけの行為だったはずのそれが、じわじわとロクさんの精神を侵食し始めていた。


──────


一ヶ月が経つ頃には、ポケットから出てくるうまい棒の割合は、完全に逆転していた。


黄色が三本に一本になり、五本に一本になり、やがて一週間のうち、赤いパッケージしか見かけないようになっていった。


コーンポタージュ味の、あの穏やかで退屈な甘さはもう過去のものだった。今のロクさんの舌と脳は、めんたい味の強烈な唐辛子の刺激と、濃い塩気なしでは満足できない身体になっていた。


最初に感じた「誰かが自分を覗き込んでいるのではないか」という薄気味悪い恐怖は、その鮮烈な味覚の快楽にかき消され、いつしかどうでもよくなっていった。


誰の意図だろうが、呪いだろうが、美味ければそれでいい。腹が満たされ、脳が痺れれば、それで構わない。


そして、その日は訪れた。


初冬の冷たい雨が降る朝、ロクさんは高架下の段ボールの中で目を覚ました。ひどく腹が減っていた。這い出るようにして、右脇の十センチ四方のポケットに手を突っ込む。


指先が冷たいビニールを捉え、引き抜く。

赤、めんたい味だ。



昼前、もう一度手を入れる。


引き抜く。

赤、めんたい味。


夕暮れ、夜、深夜。何度ポケットに手を伸ばしても、そこから現れるのは、燃えるような赤、赤、赤。

黄色いコーンポタージュ味は、世界のどこを探しても、もう一本も残っていないかのように、完全に消滅していた。


ロクさんは、高架下のコンクリートに腰掛け、赤く染まった足元を見つめた。

空き袋が、まるでパズルのピースのように同じ色で敷き詰められている。


「……あ」


ロクさんの喉から、かすれた声が漏れた。

かつて、隣の真珠母で眠る誰かを見たときのような、あるいはアサリの殻から這い出てきた赤いカニを見たときのような、冷たい感覚が一瞬だけ脳裏をよぎった。


あの黄色い平穏から、この赤い刺激へと。システムは、ロクさんに相談することなく、そのルールを完全に変更し終えた。


なぜ変わったのか。これからどうなるのか。自分は、何を選ばされたのか。ロクさんは、じっと赤いパッケージを見つめた。真ん中では、いつもと変わらない、あの間の抜けた丸い顔がこちらを見て微笑んでいる。


「……まあ、いいか」


ロクさんは小さく呟くと、袋を破って、赤い棒を口に放り込んだ。サクサクとした食感とともに、鋭い辛味と旨味が脳に突き刺さる。


美味い。間違いなく美味い。


その圧倒的な刺激が脳を満たした瞬間、ロクさんの頭の中から、すべての疑問が綺麗に消えてなくなった。


なぜ赤だけになったのか、そんなことを考える必要はもうない。


理屈?なんで?そんなことは関係ない。


ただ、手を入れれば、そこに赤い棒がある。


それだけだ。


ロクさんは咀嚼を繰り返しながら、ただぼんやりと、雨に濡れる都会の景色を眺めていた。彼の目からは涙も出ず、その脳は、再び完璧な、心地よい思考停止の闇へと沈んでいった。


──────


「おい、ロク。それをよこせ」


凍えるような冷たい雨が降る夜だった。

段ボールの影から現れたのは、血走った目をした仲間の男だった。


男の視線は、ロクさんの右脇にある、あの十センチ四方のポケットに釘付けになっていた。


毎日、何もないところからうまい棒を取り出しては貪り食うロクさんの姿を、男はずっと見ていたのだ。


男にとって、そのポケットは飢えから逃れるための「無限の財宝」であり、「絶対的な救い」に見えたに違いない。


「待て、これは――」


ロクさんが声をあげるより早く、男は狂ったように殴りかかってきた。


錆びたナイフで上着の生地ごとポケットを強引に切り裂き、奪い取る。


男は歓喜の声をあげ、切り取られた灰色の布切れに汚れた手を突っ込んだ。


カサリ、とも言わなかった。指先が触れたのは、ただの冷たいコンクリートの地面だけだった。


「出ろよ! なんで出ないんだよ!」


男は何度も手を出し入れし、布を裏返し、引き裂いた。


だが、そこからは一本の駄菓子すら現れない。


男の顔が、驚きから激しい怒りへと変わっていく。


男にとって、出ないことは「ロクが俺を騙した」という「悪」であり、許しがたい裏切りだった。


「騙しやがったな、ロク……!」


逆恨みの固い鉄パイプが、ロクさんの頭部に振り下ろされた。


一度、二度。

鈍い音がコンクリートに響き、やがてロクさんの身体はピクリとも動かなくなった。


男は吐き捨てるように引き裂かれた布切れを投げ捨て、雨の闇へと消えていった。


静寂が戻る。


ロクさんは冷たいコンクリートの上に横たわっていた。

頭部から流れ出た赤い血が、降り続く雨に打たれ、泥水と混ざり合って紫色に変色していく。


あの真珠母の胎内から引き剥がされたミナの血と同じ、悍ましくも生々しい、人間だけの色の血だった。


痛かった。死ぬほど痛かった。

けれど、薄れゆく意識のなかで、ロクさんの胸には奇妙な解放感が広がっていた。


もう、あの赤いパッケージの刺激に脳を支配されることもない。


明日、何味が出るのかに怯えることも、期待することもない。


「絶対に飢え死にだけはさせない」という、あの底辺に縛り付け続けるための残酷な奇跡システムから、ロクさんはようやく、完全に弾き出されたのだ。


それは、救いだったのだろうか。それとも、ただの無惨な狂死だったのだろうか。


通り過ぎる風も、激しく打ちつける雨も、ロクさんの死体に何も語りかけない。


世界はただ、そこに冷たく存在しているだけだった。


ロクさんの開いたままの瞳の先、泥の中に、男が引き裂いて捨てたポケットの残骸が転がっている。


その千切れた布の隙間から、雨水に濡れた、一匹の小さな赤いカニが這い出てきた。カニはロクさんの動かなくなった指先に一瞬だけ触れると、すぐに興味を失ったように、冷たい雨の夜へ向かって、不器用な足取りでどこまでも歩いていった。

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