第一章 『貝の中に住む』
その部屋は、ぬるい桃色の光に満ちていた。
「真珠母」の胎内は、いつだって優しかった。
壁のあちこちから、蜜のように甘い匂いのする粘液が肌を濡らし、血管を通じて脳へ染み渡るたび、言葉にならない幸福感が胸の奥から湧き上がる。
外の世界にあるという不幸は、ここにはない。
ただ、貝の規則正しい心音が、ドクン、ドクンと背中を揺らしていた。
私はそのリズムに身を委ねながら、この微睡が永遠に続けばいいと願っていた。
──────
視線を横に向けると、額縁に収まった絵画のように美しく、幸福そうな微笑を浮かべて眠っている幼馴染、ミナの顔が見えた。
「あれ?何かがおかしい」
呟きが漏れる。
ミナの長い髪の隙間から、奇妙なものが突き出ている。彼女の肩から先だった。
昨夜までは確かにあった白い腕が、ベッドであるはずの貝の赤黒い肉と溶け合い、境界を失っていた。
まるで最初からそこにあった肉腫のように見える。
「あ……」
喉からかすれた声が漏れる。
そのとき、ミナの半開きの唇の隙間から、何かが這い出てきた。
カチ、カチ
粘液に濡れた、小さな赤いハサミ。
アサリの味噌汁の底に沈んでいるような、ごく小さなカニだった。
カニはミナの唇を足場に、這いずり回っている。節足の動きは、指先の痙攣にも見えた。
その瞬間、頭の芯を縛っていた甘い霧が、ガラスの割れるような音を立てて崩壊した。
――これは、家?
――いや、違う
ここは、胃袋だ。
背筋を冷気が貫いた。
カニは私の視線に怯えることもなく、彼女の顎を伝い、桃色の肉の海へと沈んで消えた。
右手に目を落とすと、皮膚の表面がぬらぬらと光っている。
浸食は、もう始まっている。
『大丈夫。何も考えなくていい。痛みも、悲しみも、すべて忘れてしまえばいい』
耳元で、貝の肉が擦れ合うような声がした気がした。
母の腕のようでもあり、恋人の抱擁のようでもある。
ここに身を委ねれば、どれほど楽だろう。
ミナのように微笑み、世界との境界を溶かしてしまえば、もう傷つくことはない。
だが心臓だけが、まだ私自身のものとして脈打っていた。
私は左手の爪を、右手の甲に突き立てる。
プツリ。
赤黒い血が溢れ、桃色の床に落ちる。
痛い。
その痛みが、甘い霧を切り裂いていく。
血が流れている間だけ、私は私だった。
この痛みこそが、人間である証明だった。
私は血の滴る手を握り締め、真珠母の肉を蹴りつけた。
滑る床を押し返しながら、二枚の殻が噛み合う「世界の割れ目」へと這い進む。
あと数メートル。
粘液に足を取られながらも、爪を立てて進んだ。
背後では、真珠母が低く唸っている。怒りか、悲しみかは分からない。
───────
「どこへ行くの、トオル」
鈴を転がす声が上から降る。振り返ると、ミナがいた。
いや、それはもう「ミナだったもの」だった。
右半身はすでに真珠母の肉壁と一体化し、血管のような管が首筋に絡みついている。
だが左腕だけが、別れを告げるように肉の海から突き出ていた。
その手が、私の足首をそっと包む。驚くほど冷たく、それでも柔らかい。
「外はとても寒いよ」
ミナの瞳は濁った桃色に覆われている。
涙も恐怖もない。ただ絶対的な静けさだけがあった。
「ねえ、痛いことはもう終わりにしよう?」
甘い粘液が足首から流れ込んでくる。
傷口の痛みが、ゆっくりと痺れていく。
消えていく痛みは、救済だった。
だが私は離さなかった。
「ごめん、ミナ」
左手首を掴み、引き剥がす。
不吉な音が胎内に響く。
彼女の身体が、肉から裂けていく。
赤と青白い体液が混ざり、紫に濁る。
「痛い……?」
その声は、確かにミナだった。
幸福の洗脳が剥がれ、生身の肉体が引き裂かれる本物の「痛み」が、彼女の脳を直撃したのだ。
『やめて、痛い、トオル、離して、痛いよ』
ミナが叫ぶ。
貝の肉壁が、彼女の声を増幅させて私に浴びせる。
真珠母もまた、大切な体の一部を奪われまいと、激しく肉を波打たせ、ミナを奥へ奥へと引き込み返そうとする。
凄まじい抵抗だった。
「一緒に、痛がろう、ミナ……!」
私は最後の力を振り絞り、彼女の身体を、真珠母の肉の底から引き抜いた。ブツン、と何かが決定的に千切れる音がした。次の瞬間、私とミナの身体は、噛み合っていた二枚の殻の隙間から、外の世界へと激しく転がり落ちた。
ゴツン、と固い岩肌に背中を打ちつける。痛みが全身を走った。
そして、それ以上に私を襲ったのは、これまで経験したことのないような、凍えるほどの「寒さ」だった。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
見上げると、そこは陽の光も届かない、暗く荒涼とした海底の地平だった。
背後では、主を失った巨大な真珠母が、ガチィン!と重々しい音を立ててその殻を完全に閉ざした。
もう、あの温かい部屋には戻れない。
私の腕の中には、ミナがいた。
彼女の右半身の肉は大きく抉れ、息は絶え絶えだった。
激しい痛みに身を震わせ、寒さに歯をガタガタと鳴らしている。
しかし、その瞳からは桃色の膜が消え、懐かしい、澄んだ黒い瞳が私を映していた。
「寒いのね……外って、こんなに、痛くて、寒いのね……」
ミナは血に汚れた手を伸ばし、私の頬に触れた。
その手のひらは、貝の中にいた時のような不気味な柔らかさはなく、ごつごつとした骨の感触と、かすかな、けれど確かな人間の体温があった。
「うん。寒いよ、ミナ。でも、私たちはまだ生きている」
私は彼女の傷だらけの身体を、強く抱きしめた。
私たちの傷口からは、まだ紫色の混ざり合った血が流れ落ちている。この血が完全に赤く戻るまで、どれほどの時間がかかるかは分からない。
この寒さの中で、いつまで生き延びられるかも分からない。
ふと、ミナの服の血溜まりから、一匹の小さな、爪の先ほどの赤いカニが這い出てきた。
カニは私たちの足元を通り過ぎると、冷たい泥の上を、不器用な足取りで一歩一歩進んでいく。
貝の殻という絶対の庇護を失い、むき出しの荒野に放り出された、あまりにも無力な、小さな命の塊。
そのとき、暗闇の奥から、音もなく一匹の灰色の魚が落ちてきた。魚は大きな口をただ一度、濁った水ごと吸い込むように開けた。
カニが身を隠す隙も、逃げる隙もなかった。
カチ、という小さなハサミの音さえ残さず、赤い点のような身体は、一瞬で魚の暗い喉の奥へと吸い込まれて消えた。
魚は何事もなかったかのように尾鰭をひと振りし、再び深い闇の向こうへと去っていく。
あとに残されたのは、ただ冷たく、平坦な泥の広がりだけだった。
そこには感傷も、奇跡も、容赦のない弱肉強食の現実があるだけだった。
けれど、それを見つめる私の胸には、不思議なほどの静けさが広がっていた。
食い、食われる。傷つき、凍える。
それこそが、あのぬるい桃色の肉に溶かされる前の、私たちが焦がれ続けた「世界」の本当の姿だったからだ。
私は腕の中のミナをもう一度強く抱きしめ、激しい痛みに歯を鳴らしながら、凍える暗闇の先をじっと見つめ続けた。




