第三章 『二畳のお城』
その部屋は、正確に二畳しかなかった。
中には小さな机と、薄い布団が敷かれているだけだ。
窓はない。壁は防音材で覆われ、都会の喧騒も、スマートフォンの電子音も、ここには一切届かない。
かつて世界を股に掛け、億単位の契約を分単位で成立させていた伝説の営業マン――乾がたどり着いたのは、この狭く、何もない、彼だけの「お城」だった。
彼はあらゆるものを手に入れた。高級外車、都心のタワーマンション、最高の地位、そして彼を称賛する人々の声。
それらを手に入れるために、彼は世界の「意味」を誰よりも鋭く見極めてきた。どの企業のどの人間が何を欲しているか。何を提示すれば、世界は自分の思い通りに動くのか。
彼は世界を「利用」し、時にライバルを「捕食」し、成功という名の幸福を掴み取ったはずだった。
けれど、頂点に立ったある夜、彼は気づいてしまった。
自分が必死に集めた富も名声も、すべては人間が勝手に作り出した「意味」の幻想に過ぎない。
一歩引いて見れば、タワーマンションも、ただのコンクリートの塊だ。
高級時計も、ただの歯車の噛み合いだ。自分がそれらに「価値」を見出している間だけ、それは輝いていた。
しかし、その意味を維持するために、自分の脳は四六時中、狂ったように働き続け、すり減っていた。
「もう、いい」
乾はすべてを捨てた。家を解約し、資産を処分し、この二畳の部屋に閉じこもった。
最初は、ここが「外」の世界からのシェルターだと思っていた。
だが、数ヶ月が経つ頃には、彼の中で「中」と「外」の境界線さえも曖昧になっていった。
この二畳の壁の向こうに世界があるのか、それともこの部屋自体が宇宙のすべてなのか、どちらでもよくなった。
乾は布団の上に丸くなり、自分の両腕を胸の前で交差させた。
そのポーズは、かつて彼が見た、アサリの殻の中にそっと収まっている、あの小さなカニの姿に酷似していた。
彼の皮膚は、いつしか言葉を失った人間のそれのように、固く、乾いた質感に変わり始めていた。
指先は器用に曲がらなくなり、ただ何かを挟むためだけの、不器用な二本の「ハサミ」のように縮こまっていく。
脳の複雑な思考回路は一本ずつ消灯し、ただ「今、ここにいる」という純粋な代謝の感覚だけが残された。
彼はゆっくりと目を閉じる。
もう、世界を善悪で測る必要はない。成功も失敗もない。自分を証明するための「痛み」も、ここでは必要なかった。
二畳の部屋の隅、暗がりの床を、一匹の小さな赤いカニがカチ、カチと音を立てて這っていく。
それが乾の成れの果てなのか、それとも、かつてあの冷たい雨の夜にロクさんの指先から逃げ出したカニが、巡り巡ってここにたどり着いたのか。
誰もいない二畳の空間で、カニはただ、静かに自分の殻(お城)の中に引きこもり、完璧な平穏の中で呼吸を繰り返していた。




